kirakira 日記

きらきらした人生にしよう♪

嫌なものは嫌と言えるわがままさの重要性

2020年07月27日 16時00分30秒 | 日々 思ったこと(子育てからの気付き)
今年は小学校の夏休みは短い。
8/1~17の17日間。3~5月にコロナ休校があったからだ。
コロナ禍だし、旅行に行くか迷ったけど、先日知り合いの知り合いでラフティングとキャンプを個人でしてる人を知り、それを申し込んだ。

そして、旦那さんが私の実家に行った時に、ばあばも行きたいとなり(ばあばは子どもらが行きたがったと言うけど、実際ばあばが言い出した面が大きい)、コロナでの状況を聞くと同時に、追加を聞く事に。

コロナ禍の状況は、他のアウトドア会社のツアーで見る限り、他県からの訪問にも寛容で、車にいたずらとかはないとの事。
追加はOKだったけど、その後、男子2人がいる別の家族も一緒でいいか聞かれた。

ぱっと聞いた印象で、抵抗があった。
でも、旦那さんは「別にいいんちゃう」と言う。
さらとさあやはイヤァーーーと言う。特にさらは、泣き叫んだほど。

私の中で、断ると「コロナにかかると思って嫌がってるんじゃないか」と心の狭い人と思われるんじゃないかとか、社交的じゃないと思われるんじゃないかとか、知り合いの知り合いなのに感じ悪いとか思われたら、向こうでぎくしゃくするんじゃないかとか考えてしまった。

そして、私も嫌だなと思ったけど、よく考えたら、このメンバーで行くと、舟を実際漕げる人がインストラクターと旦那さんくらいで、あんまり進まないんじゃないかとか、
他のアウトドア会社でもラフティングツアーしてるなら、舟では身内だけでも、川の上では舟だらけとかかもしれないと子どもらに言った。

いわば、もし相手に断らなかった場合、子どもと自分を納得させる理由を考えついたのだ。
でも、それって相手に断る(嫌と言う)のが嫌だから、納得させる理屈を出して来ただけじゃないか?

さあやは、「一緒でもいいかも」となって来たけど、さらは断固として嫌と言う。
泣きじゃくる。

よく聞いてみると、さらはコロナで嫌という訳ではない。
家族で過ごしたいのに、よその人が入るのが嫌という事。
川自体に他の団体がいても、それは構わない。
ただ家族で過ごすと聞いてたのに、そこに半日以上も、そしてお昼ご飯の時もよその人がいるという事が嫌という事なのだそうだ。

私も、実際、他人家族が入るのは好きではない。
舟の上だと結構近いし、そんなに近くに人がいると家族と話すのにも気を遣う、しかも10~16時って結構長いでーと思ってた。
泊まるテントは別とは言え、ラフティングが目的の旅行で、一番の目的で楽しみの時間がほとんど他人と過ごすって、結構苦痛。
私、あんまり皆でわいわいという集まりが好きではない。知らない人が集まる場はさらに。最初から、自分で分かって行く場合はその限りではないけど、今回はその可能性があるって知らされてなかったし。

人によっては、そんなん全然気にならない人もいるから、そういう人だったら軽くOKするんだろうなと思いつつ。そういう人と比べたら「社交的じゃない」と責められそうと思ってしまって。それを否定する意味でも、断りづらかった。

そう、断りづらかったのは私だ。

そう考えると、「嫌な事は嫌」と言えるさらはすごい!

そうして、さらちゃんの話をもう少し聞く事にした。
お風呂に入っても、その会話は続いた。

母:さらちゃん、何で嫌なん?
さら:家族で行くと思ってたのに、よその家族がいると嫌。
母:よその家族がいると、何で嫌なん?
さら:男の子やとはしゃいで水かけ合ったりして、さらちゃんにかかったり、川に石投げてぶつかりそうになったり、その人達だけが楽しんで、さらちゃん達は楽しくなかったってなりそう。
そうしたら、後悔しそう。

さらに、「何で嫌か?をずっと考えていく、こういうのを掘り下げるって言うねんで。この前、(NHKの)『お伝(つた)と伝じろう』でやってたやろ」と言う。
そしたら、さら、「知ってる。道徳で掘り下げるのをしてる」と言う。
「さらちゃん、先生が教科書を読んでる時、自分の頭の中で考えてる」と言う。
道徳で習った手法を自分でやってるんかな。

今の道徳は子どもの意見を否定したり、これが正しいとあまり言わないみたいだから、そういう道徳なら良いと思う。
私らの時代は、「こう思ってほしい」という大人のエゴが見え隠れしてたから。
今の道徳は、道徳っていうより哲学的だな。

でも、相手がお母さんだから言うんちゃうやろうな、もし自分が言う立場でも、嫌って言える?と聞くと、さら「イヤ!とは言えんけど、『家族と一緒に過ごしたいので、できるだけ家族だけで過ごしたいです』って言う」と言う。
私が確認したかったのは、気が許せる身内だから自分の思ってる事、言いたい事、嫌だという事を言えても、それが外でできなかったら、「イヤ」という気持ちを抱えたまま他人には気を遣って言えないという私の二の舞をしてほしくないから。
今回は、旅行のやり取りをしてるのは私だから、私が言うけど、さらちゃんは外でも言うと言った。それだったら、お母さんは言う(断る)事にすると言う。

そうして、さらちゃんの話を掘り下げて聞いてたら、さあやが「お姉ちゃんの方が先生まれたから、お姉ちゃんの方がママと一杯しゃべってるから、さあやもしゃべらせてよー」と言って来た。
さらからしたら、さあやは可愛がられてると思ってるのに、さあやはさあやでそんな事思ってたんや。

さあやは、「別によその家族一緒でもいいん?」と聞くと、よく聞いてみると、嫌っていうのを(相手に言う場合)どう言っていいか分からないから、いいって言ったみたい。
生活団では自分の意見を言う事の大切さを言われて来たのに、そこまでは備わらなかったのか、残念。
さあやの方が年下やのに、意外と空気読むなぁ。

逆に、私はさあやの事、下の子やから、「かわいい、かわいい」で育ててるから、かわいいっていう地位を失わないでおこうと、人の評価を気にしてしまうのかも。
前に心屋マスターコースで同期だった人が子どもが2人姉妹で、上の子は叱って、下の子は褒めて育ててたら、上の子じゃなく下の子が鬱っぽくなったから、褒める弊害・可愛がり過ぎる弊害・人の評価を気にする性質の事を言ってたな。

さらは長女で、初めての子育てだから、子どもがどう考えるかとか、丁寧に向き合って来た。小さい時から保育園入れてかわいそうみたいな気持ちもあったから余計に。
でも、さあやは、赤ちゃんの時、赤ちゃんが生まれてこれから大変になると思いきや、さあやが泣いてるとこかけつけようとしたら、その前にさらがぐずぐず言ってるのに構ってるうちに先に寝てしまってた事があった。
さあやとももっと、向き合わないとな。

さあやに、「どう言っていいかは後で考えたらいいから、まずはよその人と一緒でいいの?嫌なん?さあやの気持ちはどうなん?」と聞くと、「イヤ」と言う。
やっぱりイヤなんやん。

お風呂上がってから旦那さんに、断る事にしたとさらが報告すると、旦那さんはいぶかし気な顔をしたけど、後から私も、本当はイヤだった、さらが言う事は正しいと言うと、旦那さんも自分も遠慮してしまうところがあるからと納得したみたい。

私は、人を優先させるために、自分や自分の子どもを犠牲にさせたくない。
今までの自分だけだったら、自分だけが犠牲になるのは我慢できたけど、子どもに同じ思いをさせたくない。
他人を裏切らないために自分を裏切ることーそれも裏切りだ。最高の裏切りだ。 (『神との対話②』より)

さらちゃんに、「大人は、自分が嫌って思ってても、人にどう思われるか気にして、本音を言えんようになる事がある」という話をすると、さらは「大人になっても嫌な事は嫌って言う」と言う。
このまま育ってほしい。

前に気付いたけど、たぶん、私の人生のテーマは「嫌なことは嫌と言う」という事なんだと思う。
それをさらちゃんが自分を使って、全身でぶつかって来て教えてくれてる。
さらは私に私がやり残した人生の課題をやり直させるために、生まれて来たんじゃないかと思う。さらは、私の子ども先生なんだと思う。
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