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増田宗太郎

2006-12-04 11:48:39 | うんちく・小ネタ
Masuda_sotaro増田宗太郎とは、福澤諭吉の再従兄弟(はとこ or またいとこ)。
「サザエさん」でいえば、タラちゃんとイクラちゃんの間柄になる。
全国的には無名な宗太郎だが、中津では知ってる人は知ってる存在だ。


宗太郎の生家は、福沢旧邸の隣り、同じ留守居町にある。
先日、福沢旧邸の辺りをぶらついてたら、
ひさしぶりに宗太郎の生誕地跡(現在は公園)にたどり着いた。


僕は増田宗太郎について知るところが薄いので、以下の記述は信憑性があやしい。


増田宗太郎は、国学を学んでいたかと思うと慶應義塾で洋学を学んでたり、
自由民権運動に傾倒してたかと思うと西南戦争に従軍したりと、
一見 変節漢のような印象だが、純粋で一本気な性格だったらしい。
学問に秀でてただけじゃなく、その容姿は眉目秀麗で、
女にもみまがうばかりの美男子ともいわれた。
さらにリーダーとしての資質もあったことが、
西南戦争の中津隊隊長に同志から互選されたことから伺える。


正義という多分に酒精分をおびた際どい論理に酔いやすいタチだったのか、
自分にとっての正義を妄信した。
たとえば、再従兄弟である福澤諭吉の暗殺を謀ったこともある。


地域の伝承ではこうだ。
  
福澤の在宅中、隣家の宗太郎が太刀を片手に福澤を斬りにきたが、
来客中だったため、客人に悪かろうということで延期した。
数時間後、暗殺のために再訪すると、今度は福澤が酒を飲みながら夕食をとっていた。
食事時を襲うのは非礼ということなのか、またもや延期。
そして3度目は、福澤が睡眠中だったため、寝込みを襲うのは卑怯ということで、
ついにこの暗殺計画は頓挫した。

むろんこの伝承は事実無根で、
じっさいは東京在住時に朝吹英二という知人に暗殺を依頼したというのが事実らしい。


彼の最期は西南戦争で、西郷隆盛とともに鹿児島の城山で戦死した。
城山陥落が決定的になったとき、中津隊の同志に帰郷(投降)を命じ、
宗太郎ひとりが西郷と生死を共にした。
隊士たちは宗太郎にも帰郷を勧めたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。


  吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。
  一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。
  親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。


意訳すると、
  君たちは西郷に会っていないが、
  僕はたまたま隊長に選ばれて作戦会議にでたりしたので、
  西郷に直接会ってしまった。  だから死ぬしかない
というところだろうか。


宗太郎は、西郷の毒気に当てられたというより、
西郷の古朴な純粋さに自分と同じ何ごとかをみつけ、
そのカリスマ性に心酔してしまっていたんだろう。
享年28歳。


不意に宗太郎の生誕地跡に迷い込んでしまったので、
この風変わりな先人についての想いが昂じ、
僕が彼について知ってることを意味なく書き連ねた。
この増田宗太郎という
木で鼻をくくったようなところがあるかと思えば少年みたいな純粋さをもつ秀才を、
僕ら中津の後進はもう少し検証すべきだと思う。 


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