長州はつかみ所がない。
怜悧(いい意味で)という印象があるかと思えば、
萩城下の人びとに象徴される人品の細やかさに癒やされたりもする。
この多面性は、地政学的要因と無関係ではないと思う。
長州毛利家は、関ヶ原役の戦後処理により、
中国8ヶ国120万石から、防長2ヶ国36万石に大減封された。
しかも居城を萩という、不便な日本海側に押し込められた。
財政上の死活問題でもあり、矜持の部分もえぐり取られたような思いだったにちがいない。
けれど、これが反骨心に作用した。
江戸の目を巧みにくらましつつ、藩主は萩にいながら、
実質的に藩政を司る政庁は藩域全体を見渡せる山口に、
藩経済を支える交易に関わる部署は交通の要衝である瀬戸内海の三田尻(防府)に設置した。
幕末には馬関(下関)という地理的宿命により、欧米列強との対外戦争も経験した。
前置きが長くなった。
萩城下、山口政庁、三田尻御船倉、
この重要地域をほぼ直線で結ぶべく整備された街道が「萩往還」である。
この歴史の道をトレイルする「萩往還マラニック」というイベントが開催されていて、
今年はじめてオッサン4人で参加した。
35キロほどの行程ということで、ピクニック気分で少しナメてエントリーした。
けど、思いの外ハードだった。
前半戦で膝がブロークンしてしまい、足を引きずりながらなんとか完踏した。
満身創痍になったものの、長州の怜悧さが感じられてオモシロかった。
ほぼ直線というのも、米経済から市場経済に移行していた長州らしい。
物事を計数的に捉え、家臣や商人の体力や街道の使い勝手よりも、
移動時間にプライオリティを置いたことは想像に難くない。
なによりも当時そのままの道路整備(石畳)も興味深かったし、
幕末の志士たちがこの道を何度も踏みしめていたと思うとテンションも上がる。
山口県民にとって萩往還は親しみのある街道かもしれないが、
他県の人はあまり知らないのではないだろうか?
大げさにいえば、この街道は世界遺産級の存在であると思う。
もしチャンスがあるなら、一度歩いてみることをオススメしたい。
ただし、ナメてかかると僕のようにトンデモないことになる。
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