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デ・リーフデ(慈愛号)

2005-08-03 09:00:00 | うんちく・小ネタ
1600年4月19日、オランダ船隊の1隻
「デ・リーフデ」(慈愛号)が九州豊後(大分県)の臼杵湾に漂着した。
日本とオランダとの交流は、このときを最初とする。
有名なVOC(東インド会社)の初期のころ、
すでにオランダには株式会社の原型のようなものがあって、
ロッテルダム会社という組織が1598年、5隻の船を東洋に派遣した。


5隻の船名は…

デ・ブライデ・ボースハップ(好使命号)
ヘット・ハローフ(信仰号)
ヘット・トラウ(信義号)
デ・ホープ(希望号)
デ・リーフデ(慈愛号)


…といい、なんともレリジアスな船団のようだが、
実際は冒険心とビジネスライクな感覚を兼ねそなえていたと思う。


shipこのまことにめでたい船名とは裏腹に、この船団は不運つづきで、
出向早々に提督が病死したり、南太平洋では暴風にあったりした。

「好使命号」は、この暴風ではるかチリ海岸まで流され、
スペイン人に投降。

「信仰号」は暴風を避け、マゼラン海峡まで引き返したが、
飢えと疲労で乗組員の半数ちかくが死亡し、
オランダにもどってしまった。

「信義号」は乗組員の大多数が死亡し、
インドネシアのモルッカ諸島でポルトガル人に拿捕され、
多くが殺された。

「希望号」と「慈愛号」の2隻はなんとか無事だったが、
両船の船長は、ひとりはスペイン人との交戦で戦死し、
ひとりは病死してしまった。


チリ海岸でのこされた船員たちが協議し、
結局、日本をめざすことになった。
その理由は、積み荷のなかに毛織物があり、
日本ではたかく売れるという噂があったからだそうだ(実際はちがう)。


ともかく2隻は進路をひたすらに北西にとり日本をめざしたが、
途中ふたたび大暴風雨にあい、
「希望号」は行方不明(沈没か?)になり、
「慈愛号」のみがなんとか臼杵湾に漂着した。
日本についたとき、生存者は24人にしかすぎず、
しかも立って歩けるのは、そのうち6人しかいなかったそうだ。
この生存者のなかに、のちに徳川家康の外交顧問になる
ウイリアム・アダムズ(三浦按針)とヤン・ヨーステン(耶揚子)がいた。


くどくどと書き連ねてきたが、
要するに、日本とオランダの交流のスタート地点が、
わが大分県だってこと誇りたかった。
ちなみに「デ・リーフデ」は「De Liefde」で、
英語に訳すと「The Love」となる。
ただの「Love」じゃなくて冠詞がついてるところみると、
肉欲の愛じゃなく、プロテスタント的な「神の愛」ということなんだろうか?
だから、むかしから「慈愛号」と訳されているのだろう。

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