1998年
1月14日、脳幹(橋)出血 → 2月2日まで昏睡(意識なし)
2月3日、意識回復、両手両足完全マヒ、非常に寒さを感じ、靴下手袋着けるもダメ。
2月中旬、背骨がフニャフニャ、ベッドの背凭れで女房に歯磨きをして貰うも、ただ口が半開きできたのみ。
2月20日、病床で両手両腕のリハ体操を開始。
2月下旬、PT室でのリハ開始、背骨首骨が依然ぐにゃぐにゃで両足のヒザが笑った状態。→立位訓練は苦しかった。
導尿チューブは取れたが、点滴・経管チューブは付けたままリハビリした。
3月上旬、飲食は厳禁だったけど、内緒でミルクたっぷりのコーヒーゼリーをパクリ
→ この世のモノと思えぬ甘さ・美味しさを感じ、生き延びてもっと美味しいものを食べ尽くしたい意欲に火が点いた。
3月第1週、洗面所で実習生の指導のもと、車イスで片手の歯磨きをする。
3月第2週、東京→仙台(東北大学病院)に転院。
3月中は検査検査で明けくれたけど、ナースさん達のトイレ・シャワーなどの実地指導が最高のリハビリになった。
3月末、流動食からおかゆ食へ。またリハビリパンツを卒業して、布のおパンツになった。
4月からは、ナース見守りでシャワー&&洗体。
4月GW前、初外泊許可 → この時にマヒ足首内側血管に、『もわ~』っとした最初の血流刺激を感じた。
5月末、主治医と衝突。→ 松葉杖での歩行リハビリを主張した私と、
将来も歩行は無理だから車イスリハビリせよと主張した主治医との衝突。
6月下旬、宮城病院へ転院。
大学病院では4月から本格的なリハビリが始まったが、組織トップの教授にに逆らう訳には行かなかったのだろう。
そんな中にあっても、ベテランナースさんの一人は陰ながら応援してくれたけどね。
この時期に宮城病院のリハビリのように、アグレッシッブにPTをやっていたならと思うと非常に残念。
しかし、さすが大学病院。
ナースさん達のADL実地指導のお陰で、激的な改善をみたことに深く感謝している。
1月14日、脳幹(橋)出血 → 2月2日まで昏睡(意識なし)
2月3日、意識回復、両手両足完全マヒ、非常に寒さを感じ、靴下手袋着けるもダメ。
2月中旬、背骨がフニャフニャ、ベッドの背凭れで女房に歯磨きをして貰うも、ただ口が半開きできたのみ。
2月20日、病床で両手両腕のリハ体操を開始。
2月下旬、PT室でのリハ開始、背骨首骨が依然ぐにゃぐにゃで両足のヒザが笑った状態。→立位訓練は苦しかった。
導尿チューブは取れたが、点滴・経管チューブは付けたままリハビリした。
3月上旬、飲食は厳禁だったけど、内緒でミルクたっぷりのコーヒーゼリーをパクリ
→ この世のモノと思えぬ甘さ・美味しさを感じ、生き延びてもっと美味しいものを食べ尽くしたい意欲に火が点いた。
3月第1週、洗面所で実習生の指導のもと、車イスで片手の歯磨きをする。
3月第2週、東京→仙台(東北大学病院)に転院。
3月中は検査検査で明けくれたけど、ナースさん達のトイレ・シャワーなどの実地指導が最高のリハビリになった。
3月末、流動食からおかゆ食へ。またリハビリパンツを卒業して、布のおパンツになった。
4月からは、ナース見守りでシャワー&&洗体。
4月GW前、初外泊許可 → この時にマヒ足首内側血管に、『もわ~』っとした最初の血流刺激を感じた。
5月末、主治医と衝突。→ 松葉杖での歩行リハビリを主張した私と、
将来も歩行は無理だから車イスリハビリせよと主張した主治医との衝突。
6月下旬、宮城病院へ転院。
大学病院では4月から本格的なリハビリが始まったが、組織トップの教授にに逆らう訳には行かなかったのだろう。
そんな中にあっても、ベテランナースさんの一人は陰ながら応援してくれたけどね。
この時期に宮城病院のリハビリのように、アグレッシッブにPTをやっていたならと思うと非常に残念。
しかし、さすが大学病院。
ナースさん達のADL実地指導のお陰で、激的な改善をみたことに深く感謝している。
弟は、ほとんど表現ができないので、代わりに私がへぼ医者の役目もやらなくては。
このブログが参考になるのなら幸いですが、そうでないのなら読み流してください。
しました。
八兵衛さんの貴重な経験を聞かせていただくことで
今の父のことを理解する糸口になっています。
ありがとうござます~~!
そして、今日は、こうして記事にまとめてくださって!
仰るように、医者やナースよりも、まさに自分自身が
一番自分を理解し、改善へ仕向ける役割を果たして
いくのだなと思います。
いまの急性期病院は土日はPT先生はお休みです。
回復期リハビリ病院への転院の話も出ていますので
そろそろリハビリに邁進するタイミングに父も来ている
のだと思います。
どこがいいかは素人ではわからない部分が多いですが
出会った病院が良い病院でありますように。
そこが一番と思って、父が頑張れる病院であるように
祈るばかりです。
人生の名医は自分ですから。
人生は自分の行動そのものであるかも。
経過が良くわかります
きっと一人一人、こうしたノートを書きつづっていくのだと思います。みんなそれぞれ違うのがこの病気なのですから
八兵衛さん、あの、バ○ヤ○ーが書いてない……
この時期だとまだ背骨がふにゃふにゃだから、車イスの移乗にも大変だと思うけど、
どんなに苦しくても、頭を真っ直ぐに上げたり、立ったりの訓練を早い時期にやるほど、あとが楽になります。
私の場合は、2月下~3月上にアブラ汗を流しながら、頭を上げて真っ直ぐ立つ特訓を重ねたから、
その後の激的な回復の土台になったと思っています。
この時期だとリハビリを頑張れば頑張るほど報われるものも大きいので、年内は先憂後楽で頑張らせてください。
急性期以降は命の危険は過ぎているので、病院の名はついているけど、回復期リハビリはあまり病院と思わなくて、
私の経験からは、身体を動かして汗を流す体育系の合宿所くらいに考えたほうが良いと思いますよ。
宮城病院が全くそうで、私は中学生に戻ったつもりで、今度は真面目にやり直そうと汗をかきリハビリを続けました。
毎日のリハビリの比重は高いけれど、私のこれからの人生そのものと思い至りましたね。
老成達観したような、ちょっと上から目線のものの言い方ですけどお許しください。
あくまでも私個人の場合と割り切って読まないと、おかしなことになってしまいますね。
私も還暦になったので、少しは大人の表現をしました。
以前の私なら、『主治医にバカヤローと言ってケンカを売った』と、多分書いたかも。(ニヤッ)