内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

宮澤賢治作品における現象学的記述(承前)

2013-08-28 00:00:00 | 哲学

 昨日になってやっと〈虚〉と〈空〉についての仏語原稿の仕上げにとりかかった。テーマそのものによって足を掬われてしまいかねない危うさを常に感じながらの推敲。だが、他方で、「虚空の開け」ということを思う。何故ということなくふと空に眼差しを向けるその瞬間に、そこに見えるものを通じて開かれ、与えられるものがあることを感じる。その無償の贈与性を享受できることはそれだけで幸いなのではないだろうか。
 昨日からの続きで、『宮沢賢治イーハトブ学事典』の中の項目「現象学」の後半の紹介。ただ『事典』には、出典に関する脚注、関連項目、参考文献、引用された人物・書名一覧表が付いているが、それらは省略する。

 賢治が、それ自体で存在する物自体と、時空間に立ち現われる諸現象とを乖離させ、前者は認識不可能で、後者のみが私たちに認識可能とする現象論的立場にも、そこにおいてすべてが立ち現われる意識やそのすべての立ち現われに対して超越的な自我を絶対化する超越論的立場にも、そのいずれの立場にも陥ることがなかったのは、自然の立ち現われ方そのものに私たちの注意を向け直そうという彼の根本的志向が、自然現象を対象として分析する科学的態度と、それを立ち現われるがままに生き直す記述的態度との両者によって具体化されているからだと言うことができる。その自然科学者的態度は、心的現象さえも、自然界における物理・化学的現象として捉ようとする姿勢の中によく見て取ることができる(『春と修羅』序 、「五輪峠」先駆形B参照 )。しかし、観察者自身もまた物理・化学的現象の一つとするその徹底化された科学的世界像は、賢治においては、自然の諸現象を自然の中の自然自身の内在的観点としての〈私〉における出来事として、自然が自然自身に顕現するその姿と共感・共振・共鳴しつつ記述するという態度と表裏をなしている。自然科学の術語もまた、その〈現われ〉の記述に奉仕する(「晴天恣意」 )。  
 心象スケッチの実践を通じて獲得されたこの現象学的態度は、童話作品において、自然現象の記述の視点の設定の自在性(『畑のへり』『蛙のゴム靴』『貝の火』等)、日常的時間意識からの解放(『楢之木大学士の野宿』、『銀河鉄道の夜』等)、自然形象の本質直感の内在的記述(『やまなし』における水の質感の記述等)、視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの諸感覚の交響(『風の又三郎』)、生命あるいは自然現象の律動との共振(文語詩)などの形をとって展開されている。
 賢治作品は、その全体として、「世界を見ることを学び直す」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)ことへと私たちを導く。「或る心理学的な仕事の仕度」(森佐一宛、書簡番号200 )である『春と修羅』の心象スケッチとは、 新しい総合的世界観ためのプレレゴメナあるいはマニフェストであり、「歴史や宗教の位置を全く変換しよう」(同書簡)とする企図の予備的実践である(『注文の多い料理店』広告文参照 )。賢治作品は、詩と童話という文学形式によって、自然科学的態度と現象学的記述的態度との統一を図り、その実践を倦むことなく更新し続けるそのことによって、事柄そのものの理、つまり「妙法」への途を、私たちに指し示している。