内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「汝自身を知る」ことはできるのか ― ポール・クローデルの演劇論的ソクラテス批判

2013-08-21 16:16:14 | 哲学

 フランスの詩人・劇作家ポール・クローデル(1868-1955)は、『堅いパン(Le pain dur)』という複数の世代にまたがる民族間の争いをテーマとした戯曲を第1次世界大戦中に仕上げ、休戦の年1918年に出版しているが、その翌年の5月に、ある劇場でのその戯曲の上演に先立って、自作解説のための講演を行っている。プレイヤード版で4ページ程(Théâtre II, p. 1106-1110)のこの短い講演は、1作品の解説という枠組みを超えた、人間存在についての哲学的とも言えるかなり一般的な考察を含んでいる。その考察を私なりにまとめて、今日と明日の2回に分けて紹介する。
 1つの複雑で集団的なドラマは、その始まりはある世代においてのことであれ、そのドラマ全体が1世代の枠組みに収まるとはかぎらない。親が子に伝えるのは、遺伝形質、礼儀作法、財産、社会的地位などばかりではなく、引き受けるべき結果、発展させるべき萌芽、一言で言えば、ドラマの中でのある未完の役割であり、そのドラマのシナリオは、ある幕での登場人物たちの死後も展開し続ける。要するに、たった一対の男女から、無数の人物と行動が生まれるのであり、それらの根にあるのは、婚姻の日にその男とその女とが互いに与えた同意なのである。
 人間存在は、個々人の人生の長さにそれぞれ孤立的に限定されてはおらず、それらの人たちの社会生活においては、なおのことそうではありえない。1人の人間には、まったく独りで存在する手段はなく、その行為がまったく他の誰の存在も前提することなく、その同意もなしに遂行されうるような人もいない。それゆえに、劇作家は、憎むべき登場人物役も含めて、すべての登場人物たちに対して不思議な共感を持つものなのである。ある登場人物にとっては裏切り者である別の登場人物も、作家自身にとっては、その造形のために同じような苦労と喜びを経験した被造物であり、後者もまた、ドラマ全体の構成の中では一定の役割を果たし、その人物固有の調和を持っている。
 しかし、良きものと悪しきものは、同じように全体の構成に参加するのではない。前者は、あたかも良き音楽家のように、この無数の楽器からなる大コンサートであるドラマ全体を常に心に感じつつ、その中で、たえず出会う新たな驚きを受け止め、自分のパートを守りつづけるか、あるいはそれを作り出しつづける。そのような人物が「正しい人(homme juste)」なのである。その人が「正しい」と感じるのは、ちょうどある音楽のフレーズが正しく、まさに待たれていたその場所に来るのを感じるようなものである。旧約聖書にある「音楽を妨げるな!」という命法ほどに、宗教の枠を超えて人間の行動を律する深い智慧を凝縮した一言があるであろうか。この言葉が教えるのは、「汝らの行動と密やかな思いが、汝らもまたその1つの構成要素である調和を乱さないようにするばかりでなく、それらがそのまわりに新たな調和を引き起こすか、生み出すように振る舞いなさい」ということである。


追記 これまで Ameba でブログを書いてきましたが、記事の表示画面のPRがあまりにも記事の内容にそぐわないので、今日から goo ブログに引っ越すことにしました。これまでの記事は差し当たり Ameba の方にそのまま残しておきます。方法がわかればいずれ記事のすべてをこちらに移動させるつもりです。