内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏の終わりの自省録(3)

2013-08-31 02:17:00 | 雑感

 日本人の友人が、一種の精神安定剤のように折にふれて読んでいる、特にパリで留学生活を送っている時はそうだったと話してくれた精神医学者中井久夫の文章を、この7月から私も少しずつ読み始めた。今夏の日本滞在の折に、「ちくま学芸文庫」として刊行されている『中井久夫コレクション』5巻をまとめて購入し、こちらに持ち帰ってからは、毎日少しずつ、それこそ薬を服用するように読んでいる。5巻の中からその時の気分で1冊選び、その目次を眺め、やはりその時気を引かれるタイトルのエッセイを撰ぶ。昨日読んだのは、『私の「本の世界」』。この巻には、タイトルが示すように、中井久夫の読書体験を語るエッセイ類が集められている。全体が4部に分けられていて、第Ⅰ部「ヴァレリーについて」は、中井久夫が高校時代以来の「終生の勉強の対象」とするフランスの詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)についてのエッセイ4篇、第Ⅱ部は20数篇の書評、第Ⅲ部「本と仕事の周辺」は、自訳書の「あとがき」や他人の著書に寄せた序文、祝辞・追悼文等、第Ⅳ部「読書アンケートに答えて」はアンケートに答える形で、1991年から2011年までの各年に中井久夫が読んだ良書・労作等の手短な紹介になっている。
 第Ⅱ部に収録された書評の一つ「江尻美穂子『神谷美恵子』」の中に、エドガー・アラン・ポーの言葉が引用されていて、それがちょっと予期せぬ引用だったので、何の心の準備もできていなかった私の胸をいきなり突き刺した。

 ポーはその不幸な生涯のどん底から「この世で到達可能な幸福」の四条件として「困難であるが不可能ではない努力目標」「野心の徹底的軽蔑」「愛するに足る人の愛」「野外での自由な運動」の四つを挙げている(同書、184頁)。

 我が身のこととして、これら四条件を満たしているかどうか考えてみた。第一の「困難であるが不可能ではない目標」は、私にとって、自分の博士論文以後の研究を日本語とフランス語とでそれぞれ別の仕方でまとめて本として出版するということがそれに該当する。第二の「野心の徹底的軽蔑」の「野心」とは、同書によれば「世俗的権力欲」のことだが、これにさらに「社会的成功」「名誉欲」等を加えたとしても、私にはまったくそれらが欠けているとは言える。しかし、これは軽蔑というよりも無関心というべきだろう。第四の「野外での自由な運動」については、野外ではないが、プールで毎日のように泳いでいるし、その気になれば野外での運動もいつでもできる環境にある。だからこれら3つの条件については、それらを充分にとまでは言えないにしても、どうにか満たしているし、これからさらによく満たすようにすることもさほど難しいことではない。ところが、第3の条件「愛するに足る人の愛」だけは、今の私に決定的に欠けている。この条件には二重の意味があるだろう。つまり、自分にとって愛するに足る人がいて、その人を現に私が愛していることと、その自分の愛している人が自分のことを愛してくれていることとである。つい数ヶ月前までだったら、むしろこの第三の条件こそ自分は充分に満たしていると何の疑いもなく言うことができただろう。しかし、今はもう、それができない。
 昨年来、これもまた折にふれて読むようになった神谷美恵子の諸著作には、わけても『生きがいについて』の中には、まるで今の私の精神状態をよく知っていて、その私に向かって差し向けられたかのように感じられる言葉に出会う箇所が少なくない。1966年の初版出版以来、きっと無数の読者が同じような感覚をこの本を読みながら持たれたのではないであろうか。まさに名著たるゆえんである。今の私にはとりわけ次の1節、特に最後の一文が心に痛切に響く。

 苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、かけごとその他。仕事に異常に没頭することもその一つであろう。しかしただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。従って古い生きがいはこわされたままで、新しい生きがいはみいだされていない。もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる(『生きがいについて』神谷美恵子コレクション、みすず書房、2004年、132頁)。

 この「苦しみを徹底的に苦しむ」能力、もしそう呼んでよければ「受苦能力(capacité de pâtir)」、あるいはさらに私自身の考えに引きつけて言い換えれば「受苦可能性(passibilité)」が、この私にどれだけあるのか、今私は試されているのだろうか。どこから、あるいは誰からその問いが私にやってくるのかわからないが、「あなたにそれがどこまでできるのか」、そう問われているような気がしてならない。これは私の全人格に関わる問題であり、まさにその意味でこそ、生き方そのものとして生きられるべき哲学の問題であり、私にとってすべては「そこからそこへ」であるところの「受苦可能性」の哲学の根本問題にほかならない。