内的自己対話-川の畔のささめごと

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西田とパスカル ― 交叉的読解の試み ―(承前)

2013-08-24 01:47:55 | 哲学

 昨日は、パリでも久方ぶりに日中の最高気温が夕方5時過ぎに30度に達する。その時の湿度は30%を切っていた。しかし、街路樹のマロニエの葉はすでに落ち始めていて、枝に残った葉にも黄ばんだのが目につく。この夏の終わり、ヴァカンスの終わりを告げる光景を見る度に、陽に焼かれて乾いた悲しみに胸を締めつけられる。
 以下は、昨日からの続きで、西田とパスカルについての発表原稿の後半部。

2.アウグスティヌスからドイツロマン主義へと至る思考の系譜

 ここで注目したいのは、断章「人間の不釣合」に示されたパスカル思想の独創性は否定しがたいとしても、その思想はパスカルが熟読していたアウグスティヌスの『真なる宗教』についての考察から生まれているということである(Philippe SELLIER, Pascal et saint Augustin, Albin Michel, 1995, p. 31参照)。西田もまた被造物の世界における人間の立場に関してアウグスティヌスの思想に強く惹かれていることを考え合わせると、「有限なるものの無限なるものへの関係、つまり魂の神への精神的道程 」(Georges GUSDORF, op. cit., p. 446)を3者に共通する問題として捉えることができる。無限なるものとしての自然あるいは世界における有限なるものとしての人間の立場についての思考の系譜というパースペクティヴの中で、アウグスティヌス、パスカル、西田の間に見られる思考の親和性を考察することができるのである。
 この系譜の中に、ロマン主義、とりわけ十八世紀末から十九世紀初めにかけて展開されたドイツロマン主義を、それが「個人の意識と全体的有機体の内在的意識との一致における存在の顕現」、或いは「表現しがたいまでに不釣合に大きいものとして現前する諸力」の表現、或いはまた「個別的存在と全体的存在との瞬間における融合」(ibid., p. 443)を問題とするかぎりにおいて、加えることができる。実際、西田はドイツロマン主義に、とりわけノヴァーリスに強い関心を示していた。有限なるものと無限なるものにはいかなる共通の尺度もなく、両者の接触はつかの間のものでしかないゆえに、ロマン主義の企ては「無限なるものの表現へと突破する」あるいは「無限なるものを表現へと強いる」ことからなる(ibid., p. 443-444)。このようなロマン主義の企ては、「有限なるものと無限なるものと間の不釣合は、人間には真理を探究することはできないということを意味しない」(ibid., p. 561)という確信を前提としている。
 「ロマン主義的経験の起源には、絶対と接触する神秘主義が思考の源泉としてある」(ibid., p. 534)。この視野に立てば、ロマン主義の企図の起源はドイツ神秘主義、とりわけマイスター・エックハルトとヤコブ・ベーメにおいて見出されることになるが、西田はこの二人の神秘思想家に深い関心を抱いていた。このように見ると、西田哲学は、少なくともその一部は、自然或いは世界における人間の立場に関しての西田の思考を、アウグスティヌスからドイツ神秘主義、パスカルを経て、ロマン主義へと至る思考の系譜との関係においてその射程を計測することによって、明瞭に把握することができると言うことができるだろう。しかしながら、私たちがここで問題にしたいのは、西田哲学を単に歴史的な文脈の中でこの系譜との関係において位置づけることではなく、「私たちにおいて、私たちの周りにおいて、たえずその現実性が表現され続ける人間の現実という次元」(ibid., p. 8)においてそれを理解することなのである。
 

3.西田哲学のパスカル的読解

 この思考の系譜づけはまた、西田のテキストの読み方について一つの示唆を与えてもくれる。それは西田のテキスト群を断章的表現として読む可能性、つまり、あらかじめ確立され、思考のあらゆる対象を言説の諸カテゴリー内に硬直化させる秩序にしたがって組織された表現をその中に探すのではなく、独創的かつ真正の直観を豊かに含んだ断章的表現の集成として読む可能性である。
 パスカルにおいてだけではなく、神秘主義思想家たち、ロマン主義思想家たちにおいても、断章的表現への志向がはっきりと見られることは否定しがたい。断章という表現手段は、言うべきことは他の仕方では言い表しえないという直観的主張に内在的な必然性に対応している。断章的表現がこれら思想家すべてにとって特権的な表現手段であるのは、彼らが表現したいと望んだ知は、人間精神に熟知可能な死せる対象の記述ではなく、個人的意識と全体的有機体に内在的な意識との一致における存在の顕現だからである。
 しかしながら、西田がその思考を断章的に表現しようとしたと言うことはできず、むしろ逆に、西田はその固有の論理に従いながら自らの思考に多少なりとも展開された表現を見出そうと努めたと言わなくてはならない。西田の哲学的言説の総体は、いくつかの例外を除いて、先立つ論文で提起された問題を引き続く論文において取り上げ直しながら連続する、一連の試論からなっている。それらは一つの思考のあらかじめ確立された計画に基づいた体系的提示ではなく、その都度の「生のままの思考表現 」である。まさにこの現に為されつつある哲学的探求によってこそ、西田は〈言い表しえないもの〉に触れるに至ったのである。
 西田は歴史的実在の世界の根本的構造を成立させる論理にしたがって自らの思考体系を構築しようという志向を『善の研究』執筆当時から最晩年まで常に持っていた。ところが、私たちがそのテキストの中に秩序だった構造を見出そうとすると、執拗に繰り返される同一表現や虚をつくような飛躍や断続に出会って当惑させられ、その間に明瞭な脈絡を見出しがたい節と節の間で議論の筋道を見失い、途方にくれてしまうことがよくある。それはあたかも、執拗な反復や唐突な転調が見られる、構成に難のある音楽を聴いているような印象を与える。そこから、西田のテキストは難解、不可解、晦渋、矛盾だらけ、つまるところ真っ当な哲学的言説として扱うには値しないという厳しい批判が出てくる。
 このよう批判にしばしば晒される西田のテキストを、どのようにしたらある適切な仕方で読むことができるだろうか。私たちが上で行った二つの考察、つまり西田の『パンセ』の読み方についての考察とアウグスティヌスからロマン主義に至る思考の系譜との関係における西田哲学の位置づけについての考察から、この問いに次のような一つの答えを与えることができるように思われる。それは西田のテキストをパスカルのテキストのように読むこと、つまり、光彩を断続的に放つ言語的運動として自己表現するものとしての創造的精神の作用をありのままに捉えるように読むことである。このような読み方が私たちを西田哲学の核心へと導くある一つの途を拓くであろう。