内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言語と死 ― 死の学びとしての哲学

2013-08-03 07:00:00 | 哲学

 昨日5日間の集中講義を終え、今年度から始まったネット上での成績登録も先ほど無事済ませ、ホッと一息ついている。これで2年かけた「鏡の中のフィロソフィア」というテーマの講義は一応終了。昨年同様、学生たちには毎日小レポートを書かせたが、昨日は5日間を振り返っての感想も書いてもらった。それを読むと、この演習を通じて、それぞれにこれからの勉強のための何らかのヒントを摑んでくれたようで、それだけでも嬉しく思う。もし来年度も担当することになったら、これまでとやり方を変えて、毎回もっと学生たちが積極的に口頭で参加し、1つの問題について全員で議論できるように工夫したい。そういう訓練があまりにも今の日本の教育システムには欠けていると思うからだ。そのような訓練は、通年授業のように時間をかけて一歩一歩進めたほうがより大きな効果が期待できるだろうが、まずは私に与えられた機会を最大限に活用することから始めよう。

 ピエール・アドの exercice spirituel の紹介も、まだその「さわり」に過ぎないが、今日でひとまず締め括ることにする。明日からは、また別の本を紹介しながら、日々の我が思索を続けていこう。

 「言語活動(langage)と死との間には不可思議な関係がある」とアドは言う。どういうことか。それは、「言語活動は、諸個人の個別性の死の上にしか展開し得ない」ということだ。言語活動が追求するロゴス(Logos)は、普遍的な合理性を要求し、この合理性は、絶えざる生成と個別的な肉体的生において発生する可変的な欲求とに対立する。この普遍性と個別性との葛藤の中で、前者、つまりロゴスに忠実であろうとする者は、その生命を危険に曝さなくてはならないときがある。それがソクラテスの場合であり、ソクラテスはロゴスへの忠誠ゆえに死んだのだ。
 ソクラテスの死は、哲学にとって根本的な出来事であり、それがプラトン主義を基礎づけた。プラトン主義の本質は、〈善〉は諸々の存在の最後の理由であるというところにあると言ってよいのならば、その究極の〈善〉に与ることは〈存在〉に優らなくてはならない。ソクラテスは、〈善〉を〈存在〉に対して優先させるために死を選んだのだ。この選択こそ根本的な哲学的選択であり、この意味で、哲学とは、「死の学び」である、と言うことができる。ここで言われる「死」とは、肉体を自らの手で滅ぼすいわゆる自殺のことではもちろんないし、肉体の存在を忘却させる特殊な心理状態のことでもない。哲学的な「死」とは、魂と肉体との精神的な分離のことであり、魂を肉体からできるだけ遠ざけ、それぞれの肉体の置かれた場所から魂を解き放ち、それ自身へと立ち返らせることである。それは身体的感覚のもたらす諸情念を魂から取り去り、魂の真の姿である思惟(pensée)の独立を獲得することなのである。この独立への途が日々の死の演習であり、それがまさにexercice spirituel(=ES)にほかならない。
 「死を学ぶ」とは、だから、一切の物事を普遍性の開けの中で見るために、自らの個別性の死、私たちの心を乱す諸情念の死を学ぶことなのである。この学びは、思惟の自己集中、瞑想の努力、内的対話を必要とする。プラトンにとって、「死の学び」とは、それらの実践を通じての物の見方の全面的な転換であり、個人的な諸情念に支配された偏った見方から、思惟の普遍性と客観性に統べられた世界像への転回である。この物の見方の全面的な転回は、魂の全体をもって現実化される。その転回によって開かれた視野の中では、人間的な諸情念はごく小さなものとして現れる。ここにこそ、プラトン主義におけるESの根本的なテーマがある。このESによって、人は不幸の極みにあって、平静を保つことができる。