学部で3年間、万葉集を当時の万葉学の権威の1人であった教授について学ぶという幸運に恵まれた。その1年目に、教授自身が選んだ万葉秀歌百首を完全に暗記して、すべて書き下し文で書けという試験を課された。受験者中ただ1人百首完璧に空で書き、教授からも褒められたが、その後、私自身の愚かとしか言いようのない振る舞いのせいで破門され、日本上代文学の研究者になるという夢はそこで儚く潰えた。
しかし、そのことは私が以後今日まで万葉集を愛読し続けることを少しも妨げることはなかった。フランスに暮らすようになってからも、万葉集だけは常に手元から離したことはなく、折にふれて繙く。自分が好きな歌を声に出してゆっくりと繰り返すだけで、歌に詠まれた情景が生き生きと蘇り、言霊のはたらきが我が身に実感され、1300年の時の隔たりを超えて、古代日本の風景の中を我が魂は遊行する。
万葉集には古来名歌とされる歌は数多く、私自身集中愛唱する歌は少なくないから、その中からどれか1首だけ特に選べと求められれば、きっと迷うにちがいない。しかし、まず思い浮かぶ歌1首はどれかと問われたならば、おそらく次の山部赤人の1首を挙げるだろう。
若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(巻6・919)
聖武天皇紀伊国行幸(724)に供奉した時の作。同時に詠まれた長歌に付けられた2つの反歌のうちの後者。
この歌を初めて読んだ時の感動を今も忘れない。その時は、同意趣・同表現が見られる高市黒人の先行歌(巻3・271)の影響ないし模倣などという余計な文学史的知識がなかったおかげで、素直に歌を読むことができ、たちどころに、この歌の叙する情景が、そのまま眼前に、群れ飛ぶ鶴たちの鳴き声とともに、生き生きと立ち現れた。なんと切なくも美しい叙景であろう。古来、自然詠の絶唱の1つとされてきたのも宜なるかな。もちろんこの1首も指導教授撰の万葉秀歌百首に入っていた。私も初読以来この歌を愛して止まない。
斎藤茂吉は、『万葉秀歌』で、同歌を集中指折りの名歌と認めつつ、第3句「潟をなみ」に「理」が潜んでいて、そこが弱いと評している。確かに、純粋な叙景歌と呼ぶには、この「なみ」は説明的に過ぎるという見方も成り立つかもしれない。しかし、私は、逆に、この原因・理由を表す「み」語法にこそ、必然的な自然現象が引き起こす生命の律動の屈折点の表現を見たい。
季節は初冬。時刻は、歌そのものからも詞書からも特定できないが、私には、なぜか最初の一読から、西空が茜色に染まる夕刻の光景が立ち現れた。北國より飛来した鶴たちが干潟で餌を啄んでいると、潮が満ち来たり、干潟が水中に隠れていく。居場所を失い、鶴たちは次から次へと飛び立ち、葦の生い茂る岸辺を目指して鳴きながら飛んでいく。この叙景歌は、写真のように一瞬の光景を捉えているのではない。それまで干潟で餌を啄んでいた鶴たちが、満潮で干潟が狭くなるにつれて、1羽また1羽と飛び立っていく場面から、次第に群れをなして、夕映えの空を、同じ方向を目指して鳴きながら飛んでいくまでの時の流れ・情景の推移を、わずか31文字の中に、あたかも音声を伴った映像詩のように、見事に捉えきっている。
この歌との出会いのように、日本語で表現された詩精神の精華に触れるとき、日本人に生まれたことの幸福をしみじみ感じる。