内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

テキストの地層学序説

2013-08-13 07:00:00 | 哲学

 今日から16日までの4日間、お盆休み中特別企画として(って誰が決めたのでしょう?)、これまでとこれからの私の研究発表の中から、そのいくつかについて要旨あるいはプランを紹介させていただきます。

 「テキストの地層学序説」というタイトルで、パリではフランス語で一昨年、東京では日本語で昨年、それぞれ1回ずつ発表したことがある。副題を「上田閑照によるエックハルトのドイツ語説教86解釈をめぐる問題群を手がかりにして」として、発表の主要部分は上田解釈の批判的検討という形を取った。しかし、その背景となっている基本的な問いは、以下の発表要旨を読めばわかるように、非常に大きな問題である。

 あるテキストを哲学のテキストとして他種のテキスト群から区別して読むことは、1人の哲学者においてさえも必ずしも容易な作業ではないことがある。ましてや、その著作家が哲学者ではない場合、たとえその著述の一部分にだけ適用されるという限定付きであれ、そのような読解方法そのものがまずは批判的検討の対象とならなくてはならない。そこで最初に問われるのは、なぜそのテキストを哲学のテキストとして読むことができるのか、という問いである。
 この問いが先鋭化された形で今もなおその専門家たちによって問われ続けている思想家の1人が、中世最大のキリスト教神秘主義者と言われるマイスター・エックハルトである。それら専門家たちによるエックハルトのテキスト群の様々な解釈は、それぞれの哲学的あるいは非哲学的あるいは反哲学的な方法論の適用の結果にほかならない。時には相反するそれらの解釈を比較検討することによって、私たちは、哲学的テキストの解釈のための、より一般的な方法論をそこから引き出すことができるだろう。

 この方向での私の研究はまだ緒についたばかりなので、まだその要点を簡潔明瞭に示せるところまで考えが熟していないが、明日の記事では、当時の発表プランに若干の訂正を加え簡略化したものを掲げて、今後の展開の出発点としたい。