内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

inclusion と digestion ― 異文化受容の2つのスタイル

2013-08-07 07:00:00 | 哲学

 6月25日の記事で紹介した Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge(Flammarion, collection "Champs essais", 2003、未邦訳)には、ヨーロッパ文明に関して私たちの興味を唆る論点や挑発的な言辞がいたるところに鏤められていて、たとえそれらに対してにわかには賛成しがたいような場合でも、とにかく私たちの思考を大いに刺激してくれる。同書に、異文化受容の2つのスタイルについて、 "inclusion"(封入)と "digestion"(消化)という2つの概念を導入して、それら2つのスタイルの特徴を区別しようとしている章(p.263-288)がある。今日の記事では、その章での両概念の規定を紹介する(序に書誌的なことを記しておけば、彼自身がその章の冒頭の脚注で断っているように、この2概念については、前著 Europe, la voie romaine(1re éd. Éditions Critérion, 1992 ; 2ème éd. Gallimard, collection "Folio Essais", 1999)ですでに素描されており、それを発展させることでできたのが今回紹介する章である)。その上で、明日の記事では、そこから私が展開した考察を提示する。
 ブラッグの同章での意図は、中世におけるヨーロッパとイスラム圏での外来文化受容のスタイルの差異と交差を際立たせることで、近代ヨーロッパ文明を批判的に見る1観点を確立することに主眼がある。しかし、ここでは、より一般的に、異文化受容のスタイルの問題として、この2つの概念を見てみよう。
 〈封入〉は、もともと、ある昆虫や植物などを「そのままの姿」で長期保存するために、それらを透明な物質の中に封入し、その物質によって保護し、外気との接触による変質・解体を受けないようにする保存技術のことである。この技術によって、保存された物の他性・自体性はそのまま保たれ、しかも周囲が透明な物質によって保護されているため、外部との接触はないままに、それを対象として「客観的に」いつでも観察することができるようになる。と同時に、この技術は、観察対象からの働きかけによる変化を被ることから観察者を守ってもくれる。この意味で、〈封入〉は、自他の区別を保持したまま、二重の意味である個体を安全で「透明な」場所に保管することを可能にしてくれる受容の技術なのである。
 〈消化〉については、多言を要さないであろう。外から体内に取り入れられたものが消化・吸収されれば、それはその体の栄養・エネルギーに変換されるが、それはとりもなおさず、その消化・吸収されたものがそれ以前に持っていた元来の独立性を失い、その元の姿が完全に消失することでもある。〈消化〉は、この意味で、取り入れる主体と取り入れられた対象との間の区別、自他の区別を消滅させる過程だと言うことができる。
 〈消化〉は、その原義を生物の消化過程に求めることができるように、種々の自然的過程の中でも生命体にとってその生命維持のためにもっとも自然な過程の1つである。ところが、〈封入〉は、そのままでは自然には発生し得ない、むしろ不必要あるいは無益な、場合によっては「不健康な」とさえ形容しなくてはならないほど、きわめて人為的な過程である。
 〈封入〉は、これもまた一つの自然な反応であるところの、自己の生命を脅かす外敵から身を守る防衛本能ともまったく違う。外来の事物を自己の内部に取り入れておきながら、それを〈消化〉せず、〈外部〉として保存・観察、あるいは鑑賞するための技術である〈封入〉は、二重の意味で反自然的な〈作為〉と言わざるを得ない。なぜなら、それは、一方で、外部の生命体をその本来の生育環境から切断し、その生命を奪い、対象化し、他方で、その生命体とそれを取り入れた主体との相互作用の回路を切断するからである。