内的自己対話-川の畔のささめごと

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鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(五) ― 雲雀についての哲学的考察断片(十)

2018-03-12 00:08:08 | 哲学

 空高く舞い上がり囀る雲雀という形象は、西洋近代文学と日本上代文学とに共通する表象である。しかし、私たちがバシュラールの『空と夢』から雲雀の文学的表象について学んだことからだけでは、家持の歌の有つ特異な詩的価値を説明することはできない。
 そこで、私たちは、家持歌に表現された異様なまでに深い孤愁のよって来るところをその詩的世界そのものから内在的に理解しようと努めてきた。
 『万葉集』中に他例がないか、ほとんどないか、わずかしかない語句「うらうらに」「心悲しも」「ひとりし思へば」の組み合わせからなっていることからだけでも、集中でのこの歌の独自性は際立っている。
 集中の孤語「うらうらに」ついては、3月9日の記事すでに考察したのでここには繰り返さない。
 第五句について、伊藤博は、「恋にあらざるもっとも深い人間の孤愁、社会の中にあって自己一人という真の孤独を言い表わす、集中稀有の和歌表現」と賛嘆している(『萬葉集釋注』)。
 「心悲しも」に関しては、家持の父旅人が、太宰府から帰京する船路で、任地で失った妻のことを懐い、往路では妻と二人で一緒に見た敏馬の崎を復路では独りで見る悲しみを詠った「行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも」(巻第三・450)を念頭に置いて同表現が用いられていることは間違いなかろう。
 語彙におけるこれらの独自性は、それとして際立っているだけではなく、それらによって表現された古代日本における〈個〉の思想の独自性によって、この歌を不朽の名歌にしている。
 しかし、これで同歌についての考察が尽きたわけではない。まだまだ考えるべきことは他にも多々ある。