内的自己対話-川の畔のささめごと

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文学的表象としての〈雲雀〉―〈雲雀〉についての哲学的考察断片(一)

2018-03-02 23:59:59 | 哲学

 文学における雲雀の表象には、洋の東西を問わず、一つの共通性が見られる。
 今日の記事では、日本の古代文学の例を見てみよう。
 大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)の「ひばり」の項には、「天空高く舞い上がる様子は「雲雀あがる」という表現で歌に詠まれ、太陽の使者とみなす場合もあった」とある。例として、『古事記』下巻「仁徳天皇」中の鳥王の歌、「雲雀は 天に翔る 高行くや 速総別 鷦鷯捕らさね」(記歌謡68)が挙げられている。
 伊藤博『萬葉集釋注』(集英社文庫版)の巻第十九巻末の家持春愁絶唱三首の第三首「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」の注には、「「上る」は過程なく一挙に高く上がる意で、「登る」がしだいに頂上に達する意を示すのと相対する」とある。
 いずれの場合も、雲雀には、上昇・飛翔・天空の表象が伴う。そこに軽快・自由という意味も加わり、天空に響く歌声から欣喜という含意も生まれて来る。しかし、それらの表象は、現実の雲雀の生態学的諸特徴の記述に対応しているというよりも、文学において古代からそれらの概念の暗喩として〈雲雀〉が機能していたことをむしろ示している。
 家持の名歌そのものの鑑賞にはまた後日立ち戻ることにして、明日の記事では、西洋文学における〈雲雀〉の表象について瞥見する。