内的自己対話-川の畔のささめごと

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鉛直線上の〈孤悲〉のアリア、あるいは、大伴家持における〈雲雀〉と孤愁について(七) ― 雲雀についての哲学的考察断片(十二)

2018-03-14 00:08:06 | 哲学

 家持春愁三首第三首についての今回の哲学的考察を締めくくるにあたって、同歌について今回参照した諸注釈には見られなかった論点を一つ、今日明日の二回に分けて、指摘しておきたい。
 それは、詩的空間において〈ひばり〉という動的形象によって表現されている時間性及び動体の方向性と思念の重力という問題に関わる。
 今回考察したのは、巻第十九巻末の「うらうらに」の一首のみだったが、この一首は、その直前の二首とともに「春愁絶唱三首」としてまとめて評釈されることが多い(中西進はそれに異を唱えているが、今、それは措く)。
 四二九〇番歌「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐいす鳴くも」(この歌については、2015年2月23日の記事で若干言及した)と四二九二番歌とを、そこに表現された情景と感情において同趣向とする類の評釈をしばしば見かけるが、そのような捉え方によっては両歌の決定的な差異が覆い隠されてしまうと私は考える。
 ただし、今回の考察では、前二首と最後の一首との間の制作日の違いという問題は扱わず、あくまで両歌に表現された詩的世界をその対象とする。
 その差異とは、しかし、前者が感情の空間への瀰漫だけを表現しているのに対して、後者は、「ひとりし思へば」という孤独感を表現しているという、誰が見てもすぐにわかるような表面的な差異のことではもちろんない。
 問題は、両歌に表現された詩的空間を互いに異なったものにしている動的要素の性質に関わる。
 前者が示している詩的空間内の運動の方向性とその性質は、「霞たなびき」という表現から明らかなように、不定形なものの水平方向への緩やかな拡散である。つまり、この歌の動性は、水平軸に沿って展開されている。この不定形なものの緩やかな動性によって、夕方の微光の中に瀰漫するうら悲しさが見事に表現されている。この幽き情感的動性は、鶯が視覚的に定位されていないことによって効果的に増幅さている。夕方の光の中で囀りだけが聞こえてくる。その視覚的形象が見えないものの声だけが響いている、と言ってもよい。
 「この夕影」の「この」という指示連体詞によって、この詩的空間が人生におけるある特定の時空における一回的経験の啓示によってもたらされたことが示されている。
 指示連体詞「この」は、両歌に挟まれた四二九一番歌「我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」の第五句「この夕かも」においても同様な機能を果たしている。