今日の記事では、三人の万葉学者たちと一人の詩人のこの歌についての評言を引く。私はそれらの評言に全面的に同意しているわけではないが、家持の名歌が今日の日本詩歌史の中でどのように位置づけられているかを知るてがかりにはなると思うからである。
まず、中西進『古代史で楽しむ万葉集』(角川ソフィア文庫、2010年)から。
うらうらと照る春日のゆえに心が悲しいという詩情はかつて何びとも所有しなかったものであろう。しかもそれは「独り物思いに沈むと」、といっている。沈みゆく心には、まぶしい春日が逆に暗いのである。この逆説的な感傷は、しかし近代人ならたやすく理解できるはずである。ひとり、家持の孤独感はこうして古代に稀有な感傷の詩を生み出したのだった。
次に、小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書、2010年)から。
明確には捉えにくい、深い「孤独」に、捉えにくいままに姿を与えることに成功したのです。社会的存在としての人間の悲しみを初めて詠んだこの歌は、千年以上の時を隔てた現代に生きる私たちの心にも深い共感を呼びます。
そして、佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』(角川選書、2007年)から。ただし、この評言は春愁三首すべてに関わる。
ここにいる〈われ〉は、〈いま・ここ〉におさまりきれないものを持ってしまっている。〈いま・ここ〉では完結しきれない悲しさを抱いてしまった一人思う〈われ〉である。
最後に、大岡信『私の万葉集』(講談社文芸文庫、2015年)から、やはり春愁三首についての評言を引いておこう。
このような歌は、むしろ近代人のものの感じ方、はっきり言えば、感傷に大きな価値を見出すようになった近代以降の感受性のあり方に、意外なほど親近性をもっているものだと言えるでしょう。
これらの歌が、近代に至って初めて脚光を浴び、家持の名を多くの人にとって特別に親しい名にした理由も、同じところにあったのです。
しかし、上掲の諸家が挙って家持の歌の〈近代性〉を主張していることは、かえって、次のように自ら問い直してみることを私たちに促しはしないだろうか。
私たち〈近代人〉は、八世紀奈良時代に生きた官人であった歌人家持の歌が本来は有っていなかったかもしれない近代文学的価値意識をその中に投影するというアナクロニズムの誤りを犯してしまっているのではないか、と。