内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(三) ― 受苦の現象学序説(16)

2019-05-27 12:42:27 | 哲学

 痛みに対する否定的態度として三番目に挙げられているのが分離である。
 痛みは、私たちに自己の個別的存在性を強く感じさせる。痛みは、私たちに「私はここにいる」と言わせずにはおかない。人を痛めつけることによって、その人の個別的存在の核心部にまで到達する。私たちが考えていることなど私たちの存在にとって外的なものでしかないことが、痛みによってそれこそ痛感される。私たちは激しい痛みという代償を払ってしか自己の現実の本質に達することができないのであろうか。耐え難い痛みの極点においてもっとも強く感じられる私たちの生命は、まさにそこでもはやこれ以上耐えられないものとなるほかはないのであろうか。
 私たちの内奥の最深部にまで侵入してくる痛みは、私たちを孤独のうちに閉じ込め、他者たちから遠ざけようとする。痛みは、それが激しければ激しいほど、私に私以外のことを考えられなくする。人のことを気にかける余裕などまったくなくなってしまう。痛みは、このようにして人々の間に分離を生じさせる。
 同情や憐れみによって痛みが和らぐことなど、ほとんど奇跡に近く、それは神の如き業だ。痛みに苦しむ人は、自分のうちに引きこもり、他者とのコンタクトを失う。それだけではない。自分が苦しんでいる痛みの強度と質との中に、自分だけが経験している何かを感じる。「あなた(たち)には、私がどれだけ苦しんでいるか、どんな痛みか、想像もできない」と言わせる何かがある。
 他者からの分離には別の新しい痛みが伴う。それは逃避だ。それは本能的でもあり自発的なものでもある。それは自分を探し求めることと不可分だ。「放っておいて」(あるいは「そっとしておいて」)と苦しむ人は言う。たとえそれが恩義からであれ友情からであれ、それに応えて何かしなければならないことが辛いのだ。
 痛みが悪になるのは、痛みが私たちを自己のうちに閉じこもらせるからではない。なぜなら、自己のうちに私たちは自分を深化させる原理を発見することができるからだ。痛みが悪になるのは、他者からの分離を悪用してしまうときだ。逃避し、分離を望み、それに執着し、果てしなく深刻化させてしまうところに問題がある。
 そんなとき、私たちは世界とのあらゆる絆を断ち切って、苦痛なエゴイズムの中に自分を閉じこめようとする。それは憤激の為せる業でもあり、自分の置かれた状態に甘んずる自己満足への傾斜がそこにすでに見られる。