『和泉式部日記』における「つれづれ」の意味するところを昨日まで見てきたが、補足として、『和泉式部集・和泉式部続集』から「つれづれ」で始まる歌を収録順に挙げておきたい。両集重出歌が一首あるが、詞書が異なるので二度掲げる。『和泉式部日記』の歌と一致する一首「つれづれと今日かぞふれば」は除いた。
つれづれと物思ひをれば春の日のめに立つ物は霞なりけり
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来ん物ならなくに
雨のいたう降る夜、夜一夜思ひて侍るぞ
つれづれとふるやのうちにあらねども多かるあめの下ぞ住みうき
つれづれのながめ
つれづれと眺め暮らせば冬の日も春の幾日にことならぬかな
春雨の降る日
つれづれとふれば涙の雨なるを春のものとや人の見るらん
雨のいたう降る日、人の来て、「いみじう濡れたればなん、帰りぬる」と言ひ入れたれば
つれづれと眺めくらせる衣手をきてもしぼらでぬるといふらん
冬比、荒れたる家にひとりながめて、待たるる事のなかりしままに、いひあつめたる
つれづれと眺め暮らせば冬の日も春の幾日にことならぬかな
「つれづれ」、「ながめ」(眺め/長雨)、「ふる」(降る/経る)などが密接に連関していることがわかる。つれづれなるとき、特に雨がよく降る日、眺める心は景色へと浸潤してゆき、その景色が心模様そのものになるという傾向は和泉式部において顕著だ。「つれづれと空ぞ見らるる」の歌についての寺田透の評釈を引いておく。
物足りず、何かしなければならないとする気持はうごいているが、しかし手は何をするでもなく、空に目が行き、座りこんだまま、というか、当時の習慣で、臥り加減の姿勢で空ばかり眺めている。これではいけないと思いながら、その状態に沈淪して、いたずらに時の移るのを感じている。――和泉は、自分の心が、正当な判断力をはたらかしうる自分とは別にうごいて空しく空を見つづけているのを見るのである。空を見ているのは心なのだ。無論自覚のはたらかないうち、空を見ているのは心の空しさであって、心そのものではなかったろう。しかし気がついたとき、見ていたのを心だと思わないわけには行かない。(『日本詩人選8 和泉式部』筑摩書房、1971年、37頁)