ラヴェルは、痛みに対する四つの否定的態度として、消沈(abattement)・憤激(révolte)・分離(séparation)・迎合(complaisance)の四つを挙げ、順次その様態を記述していく。
今日の記事では、最初に挙げられている態度、消沈についての記述を摘録し、それについての私のコメントを若干付す。
痛みは、私たちの意識を消沈させ、いわば麻痺させる。自ら何かを進んでしようという気になれない。このとき私たちの内部で起こっているのは、自己との対話の放棄である。しかし、この対話がなければ、考えることも意志をもつこともできない。
痛みゆえに消沈した意識は、すっかり受け身になってしまったのだろうか。いや、意識の活動がまったく停止してしまうことはない。衰弱したり、諦めたりする。しかし、誰も己のもてる力を超えたことを痛みに要求されることはない。むしろ、己のもてる力をもう消尽したかどうかは誰にも確実にはわからない。痛みにすっかり打ちひしがれているとき、それでもなお訴えかけることができたかも知れない己の存在の底に秘された源泉などもはやないと、過ちを犯す畏れなしに表明できる人は誰もいないだろう(このあたり、精神的存在の無尽蔵を信じるラヴェルの哲学の特徴がよく出ている)。
激痛によって消沈・衰弱させられているとき、いわばその代償として、痛みは若干緩和する。もう痛みに向き合おうとしなければいい。痛みにすっかり意識を明け渡し、人格が解体してしまえば、もはや痛みを感じる主体がそこにはいない。この主体の消失が消沈において痛みが見出す唯一の「療法」だ。