内的自己対話-川の畔のささめごと

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「思ふ」ことの現象学的差異の表現 ―『建礼門院右京大夫集』を読む(五)

2019-05-07 18:55:51 | 読游摘録

 建礼門院右京大夫の作歌の特徴の一つとして諸家が挙げるのは、同一歌内での同じ言葉の反復使用である。例えば、次の歌にはそれが典型的に現れている。

とにかくに心をさらず思ふことさてもと思へばさらにこそ思へ

 三回用いられている「思ふ」は、しかし、いわゆる「我思う」というような能動的・自律的思考のことではない。
 最初の「思ふ」は、心を離れることのない「思い」であり、心はその制御不可能な思いの現われに領されている。自ずと「思われること」によって心が支配されている、と言ってもよい。
 そのようなあれこれのやっかいな「思い」を、二番目の「思へば」は、「さても」と思おうとする。この「さても」は、どういう態度を表しているのだろうか。
 日本古典文学全集版の久保田淳の注解によれば、「『さてもあらむと思へば』の意。『さて(も)あり』はそのままでいる、「思うまいと積極的に打ち消すのではなく、そのまま放置しておこうという気持ち」ということである。新潮日本古典集成版の糸賀きみ江の注解は、「『さてもらむやと思へば』の略で、そのままでよいだろうか(忘れた方がよい)と思うと、の意」と、久保田とは異なった見解を示している。
 「さても」の解釈としてどちらが妥当なのかの判断はさしあたり措く。
 私は、この三つの「思ふ」を、「思う」ことにおけるいわば現象学的差異の表現として捉えたい。最初の「思ふ」が思うことのいわば自己触発であるのに対して、二番目の「思ふ」は、それを括弧に入れ、判断を停止しようとする態度を示している。そして三番目の「思ふ」は、そのような判断中止的態度によってかえって明らかになる「思ふ」の自己触発性を「さらにこそ」と強調している。
 『建礼門院右京大夫集』の後半は、この「思う」の自己触発性が身を苛む癒しがたい悲嘆として受苦されざるを得ないことの抒情的表現であり、それがそのまま生命の自照となっているがゆえに、今もの読むものを感動させるのだと思う。
 久保田淳の解説の末尾の一文を引いておく。

自身の短かった幸せと長い悲しみを、ただ自身が愛惜し続けるために書き綴った彼女の筆の跡は、その事柄の悲痛さと心情の真率さのゆえに、遥かに時代を隔てて、やはり挫折と齟齬の連続ともいえる生を送る我々をも打たずにはおかないのである。