内的自己対話-川の畔のささめごと

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論理的本質の世界とも倫理的価値の世界とも異なる情動固有の問題領域― 受苦の現象学序説(3)

2019-05-14 23:59:59 | 哲学

 マックス・シェーラーの論文 « Der Sinn des Leiden »(受苦の意味)の仏訳 « Le sens de la souffrance » がAubier 社の « Philosophie de l’esprit » 叢書の一冊として他の二編の論文(« Repentir et renaissance », « Amour et connaissance »)と合わせて Le sens de la souffrance というタイトルで出版されたのは1936年である。本書には、同叢書の二人の監修者ルイ・ラヴェル(Louis Lavelle)とルネ・ルセンヌ(René Le Senne)の連名の前書きがあり、シェーラーの現象学固有の価値の解説と本書に収められた三篇の論文の簡潔な紹介がそこに提示されている。
 その前書きの中で、フッサール現象学とは異なったシェーラー固有の現象学の特徴が説明されている箇所を引用しよう。


Cependant, tandis que Husserl étudie dans la conscience son intentionnalité intellectuelle, c’est son intentionnalité émotionnelle que Scheler s’est attaché. Cette expression suffit à nous révéler l’originalité la plus profonde de sa pensée. […] Elle [=émotion] recèle une intention ; il y a un objet vers lequel elle tend et qui, lorsqu’il lui est donné, lui apporte une véritable révélation. Cet objet, c’est la valeur. Et comme le monde des essences logiques est toujours en corrélation avec les démarches intellectuelles qui leur permettent de se manifester, de même, le monde des valeurs apparaît comme une réponse à toutes les démarches intentionnelles, qui les rendent présentes et vivantes pour nous (p. IV).

 私にとっては、この一節についての疑問が受苦の現象学的考察の一つの手がかりになる。フッサールとシェーラーの考察対象の違いをこのように対比できるのだろうか。知的志向性と情動的志向性とはこのようにパラレルをなしているのだろうか。むしろ、情動の対象は知的対象のようには対象化できないところにこそその固有性があるのではないか。
 情動一般についてその特性を考察することがここでの目的ではないが、私の疑問を一言でまとめるならば、ある情動がある特定の価値を志向的対象とし、その価値の特定が可能になるとき、それはもはや情動の問題ではないのではないか、ということである。論理的本質の世界と倫理的価値の世界との間に一定の対比が可能であるとしても、情動が情動であるかぎり、それは知的対象のようには明晰判明に対象化し得ないからこそ、還元不可能な固有の問題領域を形成するのであり、それは倫理的価値の問題とは別の問題である。
 これらの問題と souffrance と douleur との本質的差異の問題とは密接に関連している。