内的自己対話-川の畔のささめごと

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悲劇に終わる恋の追憶のメロディーの悲嘆のクレッシェンド記号 ―『建礼門院右京大夫集』を読む(三)

2019-05-05 14:06:58 | 読游摘録

 建礼門院右京大夫は、その生没年も実名も明らかではない。久保田淳の推定によれば、生年は、一一五二年から一一五五年あたりということになる。没年は、一二三〇年代半ばあたり。平安末期から鎌倉初期にかけてのおよそ八〇年前後の生涯ということになる。
 十七歳前後で中宮徳子のもとに初出仕して以後の生涯については、『建礼門院右京大夫集』の本文、『平家物語』の中で語られるその頃の出来事、『山槐記』その他のその時代の記録を手がかりとして、そのおおよそをたどることができる。
 幼少期については知る由もないが、父は、入木道(書道)の家柄として名高い世尊寺家の能筆の伊行。母は、当代きっての箏の琴の名手として聞こえた夕霧。このような一流の芸術家を両親に持つ家庭環境が彼女を才芸豊かな宮廷女房に育てたことは間違いなかろう。
 恵まれた環境で素直に育った聡明で芸術的天分にも欠けていない美少女であったろうことは、初期の歌の伸び伸びとした明るい詠みぶりから想像される。作品としては、宮廷での若き日の明朗な才気と知性的な抑制を語る前半が、悲嘆に暮れる後半生を語る後半部の陰影を深める効果をもたらしている。
 しかし、作品の舞台は、平家の没落、とりわけ恋人資盛の死の知らせによって、突然暗転するのではない。少しずつ彼女の人生に憂愁の影が忍び寄ってくる。それは、「物思ふ」という表現が初めて登場する箇所からである。その初出は、資盛との恋の芽生えについて初めて語られる回想の中である。以後、この表現及び類似表現が徐々に頻度を高めつつ、悲劇に終わる恋の追憶のメロディーの悲嘆のクレッシェンド記号として繰り返し用いられるようになる。
 その初出箇所である詞書とそれを導入とする歌とを引いておこう。

なにとなく見聞くごとに心うちやりて過ぐしつつ、なべての人のやうにはあらじを思ひしを、あさゆふ、女どちのやうにまじりゐて、みかはす人あまたありし中に、とりわきてとかくいひしを、あるまじきことやと、人のことを見聞きても思ひしかど、契りとかやはのがれがたくて、思ひのほかに物思はしきことそひて、さまざまに思ひみだれし頃、里にてはるかに西の方をながめやる、こずゑは夕日のいろしづみてあはれなるに、またかきくらししぐるるを見るにも、

夕日うつる こずゑの色の しぐるるに 心もやがて かきくらすかな