内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

受苦(souffrance)の動性あるいは受容可能性 ― 受苦の現象学序説(2)

2019-05-13 22:23:38 | 哲学

 昨日の記事では、「苦しむ」(あるいは「苦しみ」)と「苦痛」(あるいは「痛み」)の対比を手がかりとして、受苦という経験の内部に立ち入る緒を探ろうとした。そして記事の最後に、今後の考察の起点として二つの問いを立てた。
 日本語で立てたその二つの問いは、実のところ、フランス語で予め立てられた問いの便宜的な翻訳でしかない。言い換えれば、日本語での「苦しみ」と「痛み」の対比の問題が本当の問題ではない。もちろん、それと重なるところもあるのだが、私が立てたいと考えている問いをより明確にするためには、やはりフランス語に立ち戻って考えてみる必要がある。
 「苦しむ」という動詞は、 « souffrir » という動詞の訳として便宜的に採用した。「痛み」は « douleur » という名詞の訳として用いている。前者から派生する名詞が « souffrance » である。
 では、 douleur と souffrance とはどう違うのか。Dictionnaire historique de la langue française でその一般的な意味を押さえようとしても、両者の区別が容易ではないことがすぐにわかる。両者ともにラテン語起源であるが、douleur は dolorem というラテン語を直接の語源とするが、このラテン語は dolor の対格であり、その意味の説明として、 « souffrance physique ou morale » とある。このラテン語の名詞は動詞 dolere から派生した。この動詞の意味は « souffrir » とある。つまり、douleur の意味を理解するには souffrir という動詞の意味を調べなくてはならない。
 そこで souffrir の項を見てみる。同辞書は細かい活字でぎっしり版組されているが、それで約三段(一頁半)とかなり長い。ざっと要約しよう。
 もともとは「耐える」「支える」「持ちこたえる」等の意味。その目的語は苦痛(を与えるもの)とは限らない。戦場で持ちこたえるという意味でも使われた。それから、「(嫌なものを)我慢する」という意味も出て来る。例えば、目の前にいる嫌いな奴を我慢するときなど。そして、「(あることを耐えて或いは支えて)それを可能にする、認める、受け入れる」という意味でも使われるようになる。物質主語を取るとき、その物質がある耐性を有していることを意味する。明らかに苦痛をもたらすものを目的語に取る例は、この語が中世フランス語に現れたときからある。ただ、次第に「身体的・精神的苦痛を覚える・被る・耐える」という意味での使用に限定されていく。中世末期には、自動詞としてもこの意味で広く使われるようになる。
 この語義の遷移が souffrance と douleur との区別を難しくしている。例えば、ラランドの哲学用語辞典(Vocabulaire technique et critique de la philosophie)で souffrance を引くと、ただ一言「douleur を見よ」とある。ところが、douleur の項には souffrance も souffrir も見当たらない。つまり、souffrance とは douleur のことであるから、souffrance について特に説明することはない、そう執筆者たちは考えていたのであろう。しかし、これでは souffrance の固有性がまったく見えなくなってしまう。
 その固有性とはなにか。十世紀には使われていた (se) douloir という動詞は、擬古的用法を除けば、近代には使われなくなっている。つまり、douleur から、その経験の動的側面を引き出すことはもはやできない。私が souffrance を特に「受苦」と訳すのも、「耐える・支える・受ける・被る」という souffrance に本来的に内含されている動性(dynamisme)あるいは受容可能性(passibilité)を訳に反映させたいからだ。経験としての souffrance に固有な作用面(ノエシス)に光を当てること、それが受苦の現象学の目指すところである。