知的な事象を志向する意識と情動に動かされる意識とをいかに区別するかという問題について、一つの手がかりを与えてくれるのが、Ferdinand Alquié の La nostalgie de l’être (PUF, 1re éd. 1950, 2e éd. 1973) の第四章 « La séparation » である。アルキエは、本書初版出版当時の心理学の知見をそこで援用する。それは、intensité と attensité (attensity) との区別である。後者はアメリカの心理学一派からから導入された概念だが、アルキエが直接参照しているのは、Maurice Pradines の Traité de psychologie générale I (PUF, 1943, p. 35) である。この両概念の違いは、注意の程度を測れる対象意識と強度しか問題になりえない情動性意識の違いに対応する。アルキエが挙げている例を見てみよう。
Car il est clair, par exemple, qu’il n’y a rien de commun entre une vive douleur et une douleur à laquelle nous prêtons vivement attention ; l’attention, qui se sépare de la douleur, qui la constitue en état et en fait un objet, et qui permit sans doute à Lachelier de déclarer que la conscience de la douleur n’est pas douloureuse, mais vraie, ne saurait porter que sur des douleurs faibles et strictement localisées : dans la douleur très vive, à plus forte raison dans l’émotion ou l’angoisse, nulle possibilité de libération ou d’étude par l’attention ne demeure ; l’affectif m’envahit, et je vis si intensément mon rapport à l’être que je ne puis le penser (p. 94).
痛みについて注意を払い得るとき、痛みを対象化した意識は、その痛みの箇所を特定し、いわばその痛みから切り離される。ジュール・ラシュリエ(Jules Lachelier, 1832-1918)が「痛みの意識は痛くはない」というのはこの意味においてだ。しかし、そのことは痛みの意識が虚妄であるということではなく、それは痛みの意識として真実なのである。ところが、激しい痛みについては同様ではない。ましてや、痛みのように原因の特定がしにくく、理性的な制御が困難な情動や苦悶については、注意によるそれらの対象化は困難だ。激しい痛み・情動・苦悶は、いわば私の心身に否応なく侵入してくる。そのとき、私は、存在との関係をあまりにも強く生きるので、その関係を対象化して考えることができない。
経験の圧倒的強度ゆえのこの対象化不可能性が受苦(souffrance)を苦痛(douleur)から、量的にではなく質的に区別するための指標の一つになりうるだろうか。