内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みが消えても、苦しみがなくなるとは限らない ― 受苦の現象学序説(12)

2019-05-23 18:16:46 | 哲学

 痛みと苦しみについての昨日までの記事を読まれて、同じようなことを繰り返し述べているだけという印象を持たれた方もいらっしゃることだろう。ラヴェルのテキストを咀嚼しながら、その過程を通じて私自身の考察を少しずつ深めていこうとしているのだが、その歩みは遅々としている。が、焦っても仕方ない。この哲学的考察の重要性については確信があるので、焦らずに坑道を掘り進めていこう。
 ちょっと予告しておけば、ラヴェルの後に読解対象として控えているテキストは、ニコラス・ベルジャーエフの Dialectique existentielle du divin et de l’humain (1947) の第五章 « La souffrance »、エマニュエル・レヴィナスの談話 « Une éthique de la souffrance » (1982)、ポール・リクールの論文 « La souffrance n’est pas la douleur » (1992) である。
 さらに、シモーヌ・ヴェイユとミッシェル・アンリがその後に続く。ただ、この二者の哲学にとって、souffrance は決定的な重要性を持っており、しかも一つのテキストに限局して論じるわけにはいかないので、準備にもそれ相当の時間が必要だろう。ただし、ミッシェル・アンリについては、博士論文の中で souffrance の問題を取り上げた節があり、そこを見直し、発展・深化させるという形で考察を展開するつもりだ。
 今は、何はともあれ、ラヴェルのテキストを読みながら、考察を続けよう。言うまでもなく、この記事は学術論文ではない。私的考察の域を出るものではない。論文ならば、ラヴェルの説と私の考えとをはっきりと区別しなくてはならないが、以下では、ラヴェルのテキストに依拠しつつ、私の考えをそれに絡ませるようにして論述を進める。
 苦しみは、身体的苦痛には還元され得ない。あるいは、それとは質的区別されなければならない。そのもう一つの本性は、苦しみは他の存在との関係の中で自己において経験されるところにあるとラヴェルは言う。苦しみの程度は、他の意識との私たちの繋がりの親密さや強度に応じて変わる。私たちは、自分が無関心な対象については苦しまない。無関心は、私たちにとって苦しみに対する自己防衛であるとも言える。確かに、いちいち他者のことで苦しんでいたら、それこそ身が持たないだろう。逆に言えば、苦しみの大きさが私たちにその他者との繋がりの強さ・深さを示す。
 痛みと苦しみとの違いは、前者はその外的原因が消失すれば消滅するのに対して、後者は私にとってもっと内的なものであるところにある。痛みが消えても、苦しみがなくなるとは限らない。苦しみにおいて危険に曝されているのは、私の精神的存在である。そこに一種の内的な弁証法的関係が己自身との間に生成する。良心と意思との間に揺らぎや葛藤が生じる。苦しみはそこから生まれる。私は苦しみの理由を探さずにはいられない。
 苦しみの大きさは、痛みの強弱のように原因との関係において計量することはできない。痛みは、倫理的には、良くも悪くもない。その苦しみ方についてのみ、良いか悪いかを問うことができる。なぜなら、苦しむことは私の行為だからである。