内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本は「社会(コンヴィヴィアリテ)」のない国か

2021-03-15 14:21:27 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」の授業では、柳父章『翻訳語成立事情』の中から最初の二章、「社会」と「個人」のみを全体として取り上げる。先週は、Society の訳語としての「人間交際」に込められた福沢諭吉の翻訳方法を詳しく見た。明日の授業では「社会」の章の後半を読む。そこでは特に『学問のすすめ』における「世間」と「社会」の対立を見る。この点については昨年の授業でも取り上げ、このブログでもその要点について2月5日の記事で言及している。
 今回は、「社会とは何か」という問題をもう少し深く掘り下げたいと思うので、『翻訳語成立事情』の「社会」を読み終えた後、菊谷和宏の『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ 2015年)の一部を読む。本書自体大変興味深い内容で、二三回かけて読んでもいいくらいなのだが、今年度はすでに立てた年間計画に収まる範囲で読むだけにとどめる。
 ただ、書名の中の「社会」のルビとして用いられている「コンヴィヴィアリテ」(convivialité)については特に説明しておきたいと思っている。これはごく日常的なフランス語であるが、菊谷氏も述べているように、きわめて日本語に訳しづらい言葉だ。フランス語で話している時には容易に理解し使うことができても、日本語にはこれといった対応語がない。「その理由は、このフランス語に対応する単語が日本語に存在しないということ以前に、この語が示す現実、この語を裏打ちする経験―つまり社会を成すという経験―が日本に存在しないからのように思われる」という菊谷氏の見解は、『翻訳語成立事情』での柳父章の論法とピタリと重なる。
 しかし、菊谷氏が同書で「コンヴィヴィアリテ」に与えている意味は、必ずしも日常的な用法によって説明され尽くすものではない。その語源的な意味である「共に‐生きる」に立ち返るだけ済むことでもない。では、なぜこの語を「社会」のルビとして用いたのか。菊谷氏自身、この問いに、同書一冊かけて、いや前著『「社会」の誕生―トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史』(講談社選書メチエ 2011年)もあわせて、答えようとしている。氏の「コンヴィヴィアリテ」論は、だから、両書をあわせ読むことによってはじめてよく理解できるだろう。
 しかし、これも来年度以降に取り上げるテーマとすることにして、明日の授業では、この語の日本語への翻訳の困難さが示唆している近代日本社会の病理とこの語に象徴される現代思想の課題とをよりよく理解するための手がかりとして、現代産業社会のなかでの人間的な生活の再生を強く訴えたイヴァン・イリイチの La convivialité(1973)を参考文献として紹介する。菊谷書にはイリイチのこの本への言及はまったくないが、「社会とは何か」という問題を現代社会の問題として考えるために、コンヴィヴィアリテが重要な鍵概念の一つであることは確かであり、イリイチの本は今もなおその価値を失っていないと私は思う。