内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

共同の「記憶の仕事の場所」としての資料館

2021-03-25 19:01:53 | 講義の余白から

 昨日面談した修士二年の学生は、昨年の八月末までの一年間、学習院大学に留学していた。留学前の修士一年ときに彼女が選んだ研究テーマは、「神風特攻隊の心理と記憶と記録」という、まだかなり漠然としたものであった。それを研究テーマとしてどれだけ絞れるかが留学中の彼女の課題であった。留学の後半は、コロナ禍の渦中であったが、可能なかぎり特攻隊の記憶と記録が残っている場所を訪ね歩き、図書館で資料収集に努めた。その中で、自分はいったい何に特に関心があるのか、しだいにはっきりとしてきた。
 しかし、昨年末に提出された素案には関心事項が詰め込まれているだけで、論文のテーマとしてはまだ絞りきれていなかった。昨日の面談は、何を本当にテーマにするのか絞り込むことが目的だったが、本人もまだどちらに踏み出せばよいのかわからない状態から始まったので、問答にえらく時間がかかった。一時間半を過ぎたところでようやくメインテーマとすべき主題が見えてきた。
 それは、一言で言えば、「記憶の場所 lieu de mémoire」ということになるだろう。歴史的事実の記録と保存は、その多くを文字史料に負っている。もちろん、それだけでなく、音声、画像、図像、動画等の史料も歴史的事実の記述には重要な役割を果たす。しかし、それらの歴史的事実は「どこ」にどのように保存されるのか。その保存は何のためなのか。誰のためなのか。もし事実が記録として何らかの媒体によって保存されるだけに終わるのならば、それにどれだけの意味があるのか。記録は記憶されてはじめて意味を持つのではないか。その記憶とは、しかし、ただ事実を機械によって「再生」することとは違う。データとして保存されているメモリーそのもののことでもない。記憶とは、過去の事実を今も忘れずにいることであり、それは現在の私たちの意志的行為なのだ。そして、その記憶はその「場所」を必要とする。その場所とは、しかし、個々人の脳内のことではない。いわゆる思い出の場所でもない。歴史的事実が起こった地理的場所は、確かに記憶と切り離せない場所だ。しかし、その場所が記憶してくれるわけではない。「記憶の仕事 travail de mémoire」を具体的に形にした「資料館」こそ、その場所の一つなのだ。この場所は、もちろん単なる物理的な箱物のことではない。記録を生きている記憶として保存し続ける共同の意志の場所なのだ。