いうまでもなく、すべての人が同じような状況で同じように恥ずかしさを覚えるわけではない。世間から見れば恥ずかしいことかも知れないが、自分は少しも恥ずかしく思っていないというとき、二つの場合が考えられる。一つは、外的基準と内的基準は互いに別次元であり、それぞれに別の判断であると考える場合、もう一つは、世間の基準の方が間違っているのであり、それに従って自分が恥じなくてはならない理由はないと考える場合である。このような価値基準の二元論も価値基準の相対論も克服されたところで相良亨は武士の「恥」の理想形態を考えたいのだろう。
われわれは、いわば、自他の一体観が恥の精神の根底にあることをしった。この一体観はさらに人倫観・宇宙観の問題として深い底をもっているけれども、この自他の一体観とともに、ここでさらにどうしても指摘しておかなくてはならないのは、内外一体観ともいうべきものである。すなわち、字面通りに理解すれば、他者に恥じ、他者の目を問題にする時、他者の目にうつるものは、外にあらわれた行為であり、「心に心を恥じる」場合には、他者には不可視な内面であるということになろう。一方が外面に表現された行為であり、他方が内面であるとおさえれば、二つの恥は、互に異質的であるといわざるをえなくなる。はたしてそうであろうか。ここにおいて、われわれは、どうしても武士における内と外との連関について考えざるをえなくなるのである。(104‐105頁)
ここでは、もっとも武士的といいうるものをとり出すことが問題であるが、かかる観点からは、武士にとって、心と行為、内面と外面とは判然と別たれるものではなかったということが出来よう。したがって、他者の目を恥じるというのも、本来ただ内面と切りはなされた外面をのみ恥じるのではなく、心に心を恥じるというのも、行為から切りはなされた心を自ら恥じるというのではあるまい。自他の一体観とともに、内外の一体観が恥を知る精神の根底に働いていたといえよう。
恥を知る精神の根底に働いていると相良がいう自他内外一体観はいったいどのようにして獲得されるのだろうか。誰にでも本来自ずと備わっているが必ずしも自覚されてはいない普遍的な「良心」に気づき、それに従うことがその獲得を可能にするのだろうか。しかし、たとえこの「良心」をそれとして認め、さらにこの「良心」が自他内外一体観を基礎づけていることを認めるとしても、それらは恥を知る精神の形成の必要条件ではありえても、十分条件ではない。自他内外一体観に基づいて生きるとき、至らぬところのある自分をなぜ「恥ずかしい」と思わなくてはならないのか。
恥ずかしいと感じるのは、ある基準に照らし合わせて反省的に思考した結果ではない。ある行為・言動・振舞い、あるいはそれらの不履行が直接的に引き起こす感情である。そこに反省が介在する余地はない。もちろん、最初は恥ずかしいと思わないで行っていたこと、あるいは行わないことを恥ずかしくは思っていなかったことについて、あることがきっかけになり、あるいは立場・状況が変わって、恥ずかしくなるということはある。しかし、その場合でも、恥ずかしさは理性的な判断の結果として発生するのではない。自ずと直接的に感じられる恥ずかしさそのものが内在化された価値判断にほかならない。
この恥ずかしさとして内在化された直感的価値判断はどのようにして獲得されうるのだろうか。