昨日の記事の続きとして、もう一点触れておきたいことがある。
演習では、できるだけ議論が活発になるようにしたいと常々思っているのだが、実際はなかなか思うようにいかないことが多い。ところが、昨日の演習では、一人の学生が積極的に発言してくれたおかげで、それが呼び水となり、他の学生たちも発言してくれるようになった。結果として、かなり実のある議論ができたのではないかと思う。
自分では疑いながら発表した意見が他人によって自分の疑っていないもののように信じられる場合がある。そのような場合にはついに自分でもその意見を信じるようになるものである。信仰の根源は他者にある。それは宗教の場合でもそうであって、宗教家は自分の信仰の根源は神にあるといっている。
「懐疑について」から引用した上掲の段落について、まず私の方から、論理に飛躍があるのではないか、あるいは議論が破綻しているのではないかと、三木清の文章に対してかなり批判的な個人的見解を述べた。それは半ば学生たちを挑発するためであった。昨日はそれがうまくいった。
私の批判的見解は以下の通り。
自分は疑いながら発表した意見を他人が真に受けてくれ、すっかり信じ込み、それに一片の疑いも持たない。それを目の当たりにして、最初は疑いながら発表した私もその自分の意見を信じるようになる。こういうことはあるかも知れない。信じてくれる他人が増えれば増えるほど、私の信も強化される。このように、他者の信によって己の信が支えられ、ついには疑いが払拭されるということはあるかも知れない。しかし、他人の信によって己にも信がもたらされるということと信仰の根源として他者の問題とは、それぞれ別次元に属する問題なのではないのか。ましてや、宗教における神への信仰の問題が自己の信の他人の信への依存性という問題と同断に論じ得るとは考えにくい。この段落の前半と後半とには、論理の飛躍あるいは不整合あるいは断絶があるのではないか。
これに対して、ある学生が以下のような反対意見を述べた。
前半は、一般的に私たちにありうる経験を例として挙げ、信じるということの根拠が自分のうちにはないことの例証とし、後半は、そのテーゼをまず信仰一般に当てはめ、さらに神への信仰へ適用し、およそ〈信〉の根拠は本来自己の裡にあるものではないということを主張しようとしていると読めば、この段落全体を整合的に読める。
おそらく学生が提示した読みは三木清の意図に沿った理解だと言えよう。しかし、こう結論づけただけで話が済むような問題ではない。
「懐疑について」の中では、懐疑と独断とが対立的かつ相補的なものとして考察されている。それはそれで妥当な議論だと思う。しかし、独断と信とは違う。懐疑の問題を突き詰めていけば、自ずと〈信〉の問題に行き当たらざるを得ない。「信じる」とはどういうことなのか。〈信〉の根拠はどこにあるのか。〈知〉と〈信〉とはどのような関係にあるのか。「懐疑について」の読解を通じて、私たちはこれらの問題の前に立たされていることを確認したところで今回の演習を終えた。