内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

論理がそのまま倫理である生き方としての「ありのまま」

2021-03-04 07:48:34 | 読游摘録

 相良亨『武士道』「一、ありのまま」「6 いいわけの否定」の続きを読む。昨日引用した箇所の直後に井原西鶴『武道伝来記』から「不断に心懸の早馬」の節が詳しく紹介されている。その紹介の直後の段落を全文引く。

 事実性を重んじ、いいわけをいさぎよしとしない精神は、ありのままの己を以て世に立つ精神である。ありのままに生きるとは、行為的に客観的に表現された自己を自己のすべてとして引きうけて立つことである。表現された自己の外に内面的な自己の存在を認めない。勿論、外的な形のみを問題として、内面的な努力が武士には全然なかったというのではない。したがって、より正しくいえば、武士には内外の区別が存在せず、内外一体的な理解が働いていたというべきであろう。内外一体の理解をふまえるが故に、表現された自己は、本当の自己でない、本当の自己はもっとすばらしいなどということはできない。いいわけにすぎない。(64‐65頁)

 いいわけをしないということは、説明を求められても何も頑なに口を閉ざすということではない。必要なときに必要なことしか言わずに行動し、その結果、自らに不利な状況に追い込まれても、その状況そのものを引き受け、そこでなすべきことをなし、それが本来の自分の在り方であり、それ以上でもそれ以下でもなく、そこにさらに付け加えるべきことなどなにもない、ということである。したがって、いいわけするという選択はそもそも論理的にあり得ない。この論理がそのまま倫理なのである。