内的自己対話-川の畔のささめごと

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本来外在的なものを内面的規範として定着させた教育とそれを可能にした社会の安定性

2021-03-10 05:00:38 | 読游摘録

 恥を極度に恐れる武士の精神性はどこから来るのか。相良亨の『武士道』の中にこの問いの答えは見つからない。相良が採用した問題へのアプローチの仕方からして、これは当然の帰結だと言わなくてはならない。なぜなら、江戸時代の武士たちに重圧として働いていた「世間」についての言及が皆無だからである。本書に「世間」の語が見いだされるのは、わずかに四回、しかもそれらはすべて他者の著作からの引用の中である(和辻哲郎『日本倫理学思想史』からの同一引用箇所に二回、『葉隠』『福翁自伝』からそれぞれ一回)。つまり、相良自身は『武士道』の中でただの一度もこの語を用いていない(唯一の例外は「仏教は本来、出世間的であるが、武士の覚悟はあくまでも世俗内での心の持ち方である」)。しかし、「世間」を抜きにして、武士固有の恥に関する精神性を理解することはできない。
 問題を思想史研究の分野に限定するとしても、そもそも武士一般にとっての恥の理想形態を規定しようとする試み自体に理論的困難がある。恥を恐れることが武士の行動規範としてことのほか重要性をもってくるのは江戸時代のことである。江戸時代において「恥」意識は「世間」意識と不可分である。このことは山本博文の『武士と世間』(中公新書 二〇〇三年)を読めば明らかである。しかも、この「世間」はいわゆる外在的強制力ではない。なぜなら、「世間」は行動の規範として武士の精神に内面化されているからである。
 山本博文は、同書の「はじめに」の中で、世間の理不尽なまでの厳しさをよく示した作品として森鴎外の『阿部一族』に言及した後、こう述べている。

近世の厳しい「世間」は、中世末期から近世に至る長い間に形成されたと考えられるが、最大の要因は、統一政権が成立し流動的な社会が固定化されてきたことによると考えられる。そのなかで「世間」が、現在の我々が使う「世間」とほぼ同じものになってきたのだろう。武士にとっての藩社会や、町人や農民にとっての町や村といった共同体社会が成立するだけでなく、幕藩体制のもとで、日本全国どこであってもそれぞれの「世間」が付いて回るのが近世社会の特徴だった。

武士にこそ「世間」が最も大きな重圧としてのしかかっていた。武士には名があるからである。名もない町人ならば、「世間」に背を向けたところで、小さな「世間」から陰口を言われるぐらいで済むが、武士が武士の「世間」に背を向ければ武士社会全体からの厳しい制裁があった。この「武士の世間」こそがわが国の道徳意識を考える上での重要な研究テーマである。

 本来外在的な規範が精神に内在化され、もはやそれから逃れられなくなるのはどのようにしてなのか。それは幼少期からの徹底した教育を通じてである。実際、恥の感覚(廉恥心)は、武士の子がもっとも早くから教え込まれる徳の一つであった。「笑われるぞ」「名を汚すぞ」「恥ずかしくないのか」等々、子どものころから言われつづけることによって、この感覚は武士の強固な内面的規範として定着し、その意識と行動を規定した。この教育の徹底化を可能にしたのが江戸時代の社会の安定性である。