内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「汝自身を知れ」の実践としてのメディア・リテラシー

2021-09-19 23:59:59 | 哲学

 プラトンの『パイドロス』に、「じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ」(岩波文庫 藤沢令夫訳 164頁)という文字批判がある。これは、テウトという発明の神様が自分の発明した文字をエジプトのタモス王に誇ったのに対して、タモス王が突きつけた批判である。
 この一文だけでは、特に上掲の邦訳の一文だけでは、文字についてどのようなことが批判されているのかよくわからない。記憶と訳されているギリシア語はムネーメ―、想起と訳されているのはヒュポムネ―シスである。フランス語訳では、それぞれ mémoire、remémoration である。これでもよくわからない。
 しかし、この一文の前後を含めて、テウト神話のくだりを全部読めば、少なくともどこに論点があるのかはわかる。ムネーメ―は、「自分で自分の力によって内から思い出すこと」であり、ヒュポムネ―シスは、「自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出す」ことである。文字が有効なのは、後者のためであり、前者にとっては、文字に頼ることは、逆に、覚え、思い出す努力を惜しむようになり、果ては放棄するという望ましくない結果をもたらしかねない。
 秘訣と訳されているギリシア語はファルマコンで、治療法、麻薬、媚薬、秘薬などを意味する多義的な言葉である。プラトンはこの多義性を利用してここでの議論を展開している。一言で言えば、文字は薬にもなれば、毒にもなる、ということである。
 このファルマコンをめぐっては、デリダの「プラトンの薬法」(初出は1968年 Tel Quel 誌上で、後に La dissémination, 1972年に収録)の委曲を尽くした論文が有名で、Flammarion の『パイドロス』仏訳にも収録されている。
 例えば、約束を忘れないようにとメモを備忘録に書きつける。あるいは、なんらかのデヴァイスのリマインダーに入力しておく。そうしておけば、その備忘録あるいは外部記憶装置がデータを保存し、必要なときに思い出させてくれるから、自分の頭にそれらのデータを記憶しておく必要がなくなる。
 今日の私たちの生活は、スマートフォン、タブレット、PCなど、ヒュポムネ―シスのための超便利な外部記憶装置に満ち溢れている。二四〇〇年前のムネーメ―とヒュポムネ―シスをめぐる議論が今日ほど先鋭な仕方で問われるべき時代はかつてなかったと言ってもいいだろう。
 ヒュポムネ―シスを批判し、ムネーメ―を擁護する、という簡単な話ではない。日々進歩しつつあるICTおよびAIによって、両者の関係そのものが変容しつつある。脳の記憶がムネーメ―で、外部記憶装置に依存するのがヒュポムネ―シスだと、前者を善玉、後者を悪玉にして済ませるわけにはもはやいかない。両者の境界が以前とは異なってきた。あるいはこの二分法的思考そのものが問い直しを迫られている。Humanisme から Transhumanisme へと不可逆的な仕方で人間社会は変容しつつある。
 そもそも無媒介なムネーメ―などありうるだろうか。私たちは、何らかの媒体・媒介、つまり広義のメディアなしには生きられない、本来的に「メディア的」存在ではないのか。だとすれば、メディア・リテラシーとは、「汝自身を知れ」の実践であり、哲学の実践にほかならない。