午前4時起床。すぐに明日のメディア・リテラシーの授業の準備を始める。昨晩思いついたアイデアに基づいて文献を読み漁った。
昨晩、石田英敬の『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書 2016年)の中から読解テキストとして使えそうな箇所を探していた。Marc Azéma, La préhistoire du cinéma. Origines paléolithiques de la narration graphique et du cinématographe…, Éditions Errance, 2015 に言及している「はじめに」の一節を使おうと夏休み中から目論んでいたのだが、いざ読み直してみると、語彙レベルがちょっと高すぎることに気づく。そこで、語彙・構文レベルの点からより適切な箇所を探すことにした。
第1章「メディアと〈心の装置〉」の中の「プラトンとファラオの文字」と小見出しが付けられている一節に目が止まった。そこで取り上げられているのはプラトンの『パイドロス』である。哲学科の院生だったときに熱中して読んだ対話編だ。「メモリーとリマインダー」と題された次節で、『パイドロス』の中の記憶(ムネーメ―)と想起(ヒュポムネ―シス)の違いを問題にしている箇所が引用されている。内容的には授業で話題にしたいテーマにまさに対応しているし、語彙・構文のレベルもさほど難易度が高くない。
ただ、ちょっと困るのが、岩波文庫の藤沢令夫訳がたくさん引用されていることである。藤沢訳の日本語が特に難しいわけではない。だが、現代日本語の通常の語法とは若干違っているところがある。それで学生たちが語義・語法について妙な誤解をしてしまっても困る。他方、それらを既存の仏訳に置き換えてしまうと、残りの地の文は易しすぎる。ということで、本書から読解テキストを選ぶことは諦めた。
読解テキストとしては、松田美佐『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』(中公新書 2014年)から三箇所選んだ。
読解テキストのためのパワーポイント作成が済んだ後、もう一度、『大人のためのメディア論講義』「はじめに」最初の節「クロマニョン人たちは「運動の文字」を書いていた」を読み直す。そのとき、「篝火のゆらめく洞窟の暗がりに浮かび上がった動物たちの運動は……」という一文に目が止まった。プラトンの『国家』のかの有名な「洞窟の比喩」が自ずと思い起こされた。そこでハッとした。「洞窟の比喩』がメディア論に応用できると気づいたからである。
ここまでが昨晩の出来事である。
昨晩「降臨」したこのアイデアを受けて、今朝起き抜けから、『国家』の当該箇所の5つの仏訳を繰り返し読み、二十冊ほど手元にあるプラトン研究書の中から「洞窟の比喩」に言及している箇所をすべて拾い出した。メディア・リテラシーの授業はわずか1時間であり、そもそも哲学の授業ではない。しかも、「洞窟の比喩」に言及できるのは、せいぜい二十分ほどである。なのに、その準備に半日かかった。しかし、本人としては、すごく充実した時間であった。
学生たちの多くは、高校最終学年の哲学の授業で「洞窟の比喩」について習っているはずである。メディア論とは何の関係もないかに見えるその「洞窟の比喩」が、実は、メディアの本性を理解するための良き手がかりになることを明日の授業で示す。