講談社選書メチエの今月の新刊、ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(合田正人訳・古田徹也解説)の古田の優れた解説を読んでいたら、古代懐疑主義者の一人、セクストス・エンペイリコスの『学者たちへの論駁』からの引用があり、それにとても興味を惹かれたので、備忘録としてここに書き留めておきます。
真理を主張する一切の判断を保留するよう自他に求める古代懐疑論者たちに対して、自分たち自身の主張は真であると判断しているのではないかという批判が当時からありました。この種の批判に対して、セクストス・エンペイリコスは、自分たちが繰り出す言葉は、ある種の薬のようなものだと応じています。
「すなわち、薬が効き――つまり、懐疑主義者の言葉を受け入れ――、哲学者が自分の思い上がりや性急さを省みて判断保留への至って、アタラクシア(無動揺、不動心、心の平静)の状態に落ち着くならば、そして、そこで平安を得て満足するならば、自分たちの言葉はそこでまさに用済みになるのであって、それ以上の意義は何もない、というのである。」(古田氏解説)
そして、セクストスの『学者たちへの論駁』から以下の一節が引用されています。
〔…〕浄化剤〔下剤〕は身体から水分を排出した上で、いっしょに自らをも押し出すのであるが、それと同様にして、証明に反対する議論もまた、あらゆる証明を否認したのちに、いっしょに自らをも無効にすることができる〔…〕。