内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(19)― 他者とともに学ぶ精神的修練としての哲学

2022-06-25 13:41:48 | 哲学

 ピエール・アドの語る exercices spirituels をずっと訳さずに原語表記してきましたが、昨日紹介した『ウィトゲンシュタインと言語の限界』の中でそれに「精神の修練」あるいは「精神的修練」という訳があてられており、おそらくそれは昨年末刊行された『生き方としての哲学』(法政大学出版局)での訳語を踏襲しているのでしょう。ですから、拙ブログでも今後はこのいずれかの訳語を使わせていただくことにします。
 ただ、パヴィの本のタイトルの訳にはまだ問題が残っています。というのは、原タイトルは Exercices spirituels philosophiques ですので、上掲の二つの訳語に「哲学的(philosophique)」という形容詞をさらに付け加えなくてはなりません。ところが、「哲学的精神の修練」としても「哲学的精神的修練」としても、誤解を招く恐れがあります。「哲学的」は「修練」を形容しているからです。一つの解決策として、「精神の哲学的修練」とすることが考えられますが、こうすると、精神を哲学的に修練する、つまり、他の仕方でする精神の修練もあり、それとは異なったものとして哲学的な修練があるのだという印象を与えてしまいます。それはけっしてまったくの間違いだというわけではないのですが、パヴィが本書で強調しているのは、「精神的修練=哲学」という等式であり、この等式が適用できる古今の哲学のテキストのアンソロジーを編むことが本書の目的ですから、哲学的ではない精神の修練は本書ではそもそも論外なのです。
 以上の諸点を考慮して、さしあたりの妥協案として、『精神的修練としての哲学』を本書のタイトルの仮訳としておきます。
 さて、本書の第六章は « Apprendre d’autrui » となっています。「他者から学ぶ」ということです。精神の修練は、ただ独りで行うことも不可能ではありませんが、他者について学ぶ、あるいは他者とともに学ぶことも可能であるばかりでなく、古代ギリシアではさまざまな修練の共同体が各地に形成されていました。この点、近代以降の哲学について私たちが抱いている通常のイメージと大きく異なるわけですが、精神の修練としての哲学は、近代においても、いや現代においても、他者とともに形成する共同体という性格をなんらかの仕方で維持していますし、それを基盤としています。それがむしろ哲学の本来の在り方だったと言っても過言ではありません。
 難解な哲学書を読み、それについて考え議論し、論文を書き、本を出版する、あるいは、大学の教室で哲学の講義をしたり受けたり、演習を指導したり、それに参加したりするのは、本来の哲学の在り方からかなり離れてしまっているのです。もちろん、それらの活動が無意味だとは思いません。高度に専門性の高い問題を扱うためには、哲学研究のための「専門教育」を受けなければなりません。そうしなければ、いわゆるスペシャリストとして認めてもらえません。
 しかし、精神的修練としての哲学は、哲学研究・教育を職業とする人たちだけがそれを実践する資格をもっているわけではありませんし、それらの人たちがちゃんと実践しているともかぎりません。逆に、いわゆるアカデミックな哲学とは「無縁な」暮らしをしている人たちのなかに精神的修練としての哲学を実際に生きている人たちもいます。精神的修練としての哲学は、研究の対象とされた「哲学」とは無縁な人たちによってこそよりよく実践されうる、とさえ言えるのではないかと私は思います。