内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」― マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より

2022-06-08 13:31:08 | 読游摘録

 昨日の記事で話題にした環境思想のアンソロジー La pensée écologique の巻頭にエピグラフとして引用されているのは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の終わりの方にある有名な一節である。近代社会において職業の専門化と全面的な人間活動の断念とは不可避であることの理由を説明している箇所である。以下の引用は岩波文庫版の大塚久雄訳。

というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく――の生活のスタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう。

 人はある特定の仕事を天職として(あるいは専門として)遂行しなければならないという近代の秩序界を作り上げるのに与って力を発揮した禁欲の精神をもはや必要としないほどに強固な枠組みとなった近代社会では、禁欲の精神の宗教的起源は完全に忘却され、近代社会は人々にとって、ただ働かなければならないから働き、ただ営利を上げなければならないからそのために身を粉にし、ただ競争に勝つために必死に競争する「鉄の檻」となった。ヴェーバーはこう問う。

将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか。そしてこの巨大な発展が終るとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも――そのどちらでもなくて――一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」 »letzte Menschen« にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。――

 私たちがこの「末人」であるとして、ヴェーバーに対して私たちはどう答えるべきであろうか。