昨日の記事に引用したマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の一節で使われている「末人」という言葉は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の前口上の中の「末人」についての一節が念頭に置かれている。このことは諸家の指摘する通りであるが、ヴェーバーの言葉は、『ツァラトゥストラ』からの引用ではないし、ヴェーバーの言っていることはニーチェの言いたいこととはかなり異なっている。『ツァラトゥストラ』の当該箇所を手塚富雄訳で引用しよう。
かなしいかな。やがてその時は来るだろう、人間がもはやどんな星をも生み出さなくなる時が。かなしいかな。最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。/見よ。わたしはあなたがたにそういう末人を示そう。/『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とは何か』――そう末人はたずねて、まばたきする。/そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は蚤のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。
「末人 letzter Mensch」はとても印象深い言葉だが、もっと普通の日本語にすれば「最後の人間」ということであり、光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳はそう訳している。手元にある四つの仏訳もすべて dernier homme と訳している。
西洋精神史でこの矮小なる「最後の人間」と鮮やかな対照を成しているのがモンテーニュの「最初の人間」であろう。
世の著作家たちは、なにかしら特別で、いっぷう変わった特徴によって、自分の存在を人々に伝えようとする。しかしながら、このわたしは、文法家でも、詩人でも、法律家でもなく、まさに人間ミッシェル・ド・モンテーニュとして、わたしという普遍的な存在によって自分のことを伝える、最初の人間となるのだ。(第三巻第二章「後悔について」宮下志朗訳)
Les autheurs se communiquent au peuple par quelque marque particuliere et estrangere ; moy le premier par mon estre universel, comme Michel de Montaigne, non comme grammairien ou poete ou jurisconsulte.
原文を見るとわかるように、premier homme という表現が使われているわけではないが、前後の文脈から考えて「最初の人間」と訳すことは妥当だと思う。
この箇所について、大西克智氏は『『エセー』読解入門 モンテーニュと西洋の精神史』(講談社学術文庫 2022年)の中で、次のように述べている。
はたして、本人の期待どおりにことは運ぶのかどうか。ただ虚構を破壊しさえすれば、「私」が何者であるのかも明らかになるのかどうか。「私」の正体は、みずからを知り・導き・示すのだという意図に深く穿たれたアポリアと一蓮托生の関係にあり、まさしくそのことによって、モンテーニュは、彼自身の理解をはるかに超えた深く広い意味で、西洋の精神史における「最初の人間」となるでしょう。
そして、終章の最後の方で、モンテーニュが「最初の人間」であるということを次のように解き明かしている。
彼は、みずからの意図と歴史の力との数奇な共振のうちに「全存在」を横たえた「最初の人間」でした。[…]こと彼自身の本領たる思索空間においてとなると、モンテーニュは「自分の意志を節約すること」がまったくできない人でした。その意味で、愚直な人でした。最後の言葉にいたるまで、おのれの愚直を言葉の存在根拠にしようと試みつづけた彼は、この点においてもまた西洋の精神史における「最初の人間」でした。
ニーチェがモンテーニュを称賛していたことについては5月24日の記事で話題にした。私たち自身は、ニーチェの「最後の人間」からモンテーニュの「最初の人間」に立ち返ることができるだろうか。