昨日の記事で引用した川口久雄『菅家文草 菅家後集』解説の「結び、文学史的地位」に提示された雄大な比較文化・文学的視座は示唆的である。
大陸の異質な文化の重圧にたえて、東海の島国に自国文化を形成してきたわが古代にあって、巨大な中国古典遺産をたとえひきうつしにせよ、継承することが、後進文化圏としてのおのれを展開させるみちであった。原型とはやや次元を異にし、変容されたものではあっても、異質な文化的重圧はかくしてのみのりこえられるべきであった。言語・文学の面についていえば、漢文という古典の言語・文学の形式が日本化して日本漢文を形成する過程において、同時に日本語および日本文学の形式に影響を与えずにはやまなかった。すなわち日本語を洗練し豊富にし、また日本文学に芸術的生命をふきこみ、それ以後の展開を可能ならしめた。古今の真名序から仮名序の散文が、寛平期の漢文の散文形式から、延喜・天暦期の日本語の散文が生まれでてくる。きくところによれば、ちょうどラテン系の諸形式から、ヨーロッパ・バロック文学が生まれてくるように。源氏や枕の文体さえも、このような漢文系の形式と内容との影響をうけて形成されることが分析されつつある。そしてかような道筋は、明治において西欧という異質文化の重圧をうけた際に、奇しくも同じ足跡をたどろうとして現に苦闘しつつあるのである。こういう意味において、わが国の精神文化の形成を考える上において、道真において典型的にみられる漢文学の受容と日本漢文の形成は今日においても無意味ではあるまい。
圧倒的な優位に立つ古代中国文明・文化に飲み込まれてしまうことなく、その摂取と変容と「うつし」を通じて数世紀をかけて徐々に形成されていったのが中古の日本語であるとすれば、明治以降急速に摂取・受容された西洋文明・文化をその不可欠の栄養素としながら、それを十分に吸収したとはいえない現代日本語はまだ形成途上にあるのではないだろうか。そうであればこそ、二つの外なる源泉から繰り返し養分を吸収することで形成されてきた日本語は、外に学ぶということ忘れなければ、これからもまだまだ「成長」できる言語なのかも知れない。