昨日の担当授業は、一昨日と同じ学部ニ年生を対象とした「現代文学」。前期開講の「近代文学」は戦中までを扱い、別の教員が担当した。私が請け負うのは、いわゆる戦後文学から平成の終わりまで。といっても12回の授業でできることは限られており、おのずとテーマの選択を強いられる。
そもそも今年度から私がこの授業を担当することになったのは、現代文学が専門の同僚が今年度から研究員として日本へ出向することになり、最短でニ年、きわめて高い確率で四年間、不在だからである。この担当は消去法による決定で、私が適任者だからではもちろんない。いわゆる「困ったときは〇〇」に私の名前が当てはめられたにすぎない。
ストラスブール大学日本学科は今年で開設四十周年を迎えるが、文学の授業を古代から現代まで全部担当したことがあるのは私だけである。野球に例えるならば、どこのポジションでもこなせる超ユーティリティ・プレイヤーといったところであるが、それで特別手当があるわけでもなく、将来「殿堂」入りするわけでもなく、要するに、「あいつならなんとかしてくれるんじゃない」という根拠のない淡い期待を背負った「何でも屋」ってことで、別に嬉しくもない。
まあ、新学科開設の責任者として赴任し8年間勤めた前任校では、日本経済・政治・法律、さらには東アジアの地政学(それも修士課程)まで担当したことがあるし、ストラスブールでも、他校のポストへの採用が決まって抜けた同僚が担当していたメディア・リテラシーを引き継いだこともあったから、それに比べれば、今年度担当科目は「おだやか」なものです。
気の毒なのは、私ではなく、学生である。私の専門分野が「哲学」らしいということを彼女ら彼らは薄々知っているが、まさにそうであるからこそ、「現代文学」の担当教員が「なんで〇〇なの?」と訝しく思い、さらには不審の眼差しを私に向ける学生がいたとしても不思議はない。
しかし、そこは百戦錬磨のベテランである。テキトーにうわべを取り繕う手立てにはストックがかなりある。それらを使い回して今学期を乗り切るのが私自身のパーソナルで極秘の目的である。
昨日は、初回だから、授業概要、成績評価・試験方式、提出課題など、前置き的な話で時間を稼ぎ(って、この使い方間違ってるか?)、ついで、基本方針として、小説中心の文学史的説明という偏向を排し、詩歌・劇文学・評論・エッセイなど、とかく軽視されがちな分野にも広く眼を配る、とぶち上げて、小説についての説明が手薄になることへの事前の正当化を密かに行い、さらに、フランスでもよく知られ、翻訳も多数出回っている作家は軽く扱い、これまであまり注目されてこなかった作家や作品を紹介するという独自性を前面に出して学生の気を引き、毎回コラム的・箸休め的に近現代詩歌を紹介する時間を設けるという変化球を投げ、その日扱うテーマと関連する漫画やアニメや映画を紹介することもあるかも知れないと期待をもたせるというおまけをつけた。
そのうえで、戦後文学の一つの出発点として、原民喜の『夏の花』(仏訳あり)を紹介した。紹介後、この作品に描かれた原爆投下前後の広島の光景との関連で、片渕須直監督のアニメーション映画『この世界の片隅に』のなかの原爆投下直前直後のシーンをちょっと見せたところで残り30分。
その時間には、この授業のメインテキストとして使う『新日本文学史』(文英堂、2106年)の編著者たちによる気品溢れた、しかし気合が入りすぎて難解な「はじめに」をぶち込み、学生達を呆然とさせておいたうえで、「でも、心配することはないですよ。このテキスト、高校生向けだけれど、この「はじめに」を一回読んだだけで理解できる高校生はほとんどいないと思います。でも、大事なのはその中身ですから」と私自身が用意した仏訳を読み上げたところで、授業終了。
その「はじめに」の全文は以下の通り。
日本文学史と名づけられる書物の数は、はなはだ多い。しかしながら、文学史とは何か、また文学史はどのように学ばれるべきかについての明確な意識につらぬかれた書は、いたって少ない。単に作家と作品と文学に関する諸事項についての知識を、それらの生起した時間的序列に従って蓄えるのが文学史学習の目的ではあるまい。
いったい、文学という事実は、我々が主体的にそれとかかわることによって、その姿を立ち現すのである。したがって、文学はつねに我々の現在的経験としてのみ存在するのだといえようが、しかし、そのことは、過去の時代の文学遺産を、現在の我々の立場からほしいままに鑑賞したり解釈したりしてよいということではない。過去の文学を現在の経験として存在させるということは、それらを現在にひきすえようとしても、そのことを拒否するそれぞれの固有性に目を開き、過去の文学と我々との間の距離を自覚し、両者を見直す往反運動を重ねることによって、過去から現在へと連なる血脈をさぐりあてるという作業なしには不可能なのである。
本書は、現在の我々が過去の文学とそのような関係を正しく取り結ぶための指針の書として編まれたのであり、そうした目的のもとに、全時代にわたる文学の諸事実を歴史的に体系だてたものである。執筆にあたっては、日本文学の研究者として現在第一線に立つ気鋭の諸氏六名に強力を依頼したが、これらの諸氏の熱心な討議を経て書き下ろされた本書は、高校生諸君の文学史学習のための最適な書となりえていることは、編著者の大いなる喜びである。
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