内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ノイズ」によってこそ表現されている思考の綾と感情の揺らぎ

2024-09-16 23:59:59 | 雑感

 インタビューでも対談でもモノローグでも、録音をなんら編集せずにそのまま聴くと、多くの場合、文法的・構文的・統辞法的な観点からは必要のない要素、情報伝達の観点からも不必要と思われる要素が、おそらく話者本人が思っている以上に多く含まれていることに気づく。
 それらの要素とは、「あっ」「いや」「うん」「えっと」「おお」「おや」「はあ」等々のいわゆる間投詞的なもの、「そう」「だって」「で」「なんだろう」「もう」「やっぱり」など、話者本人が無意識的に挿入している、いわば「合いの手」的な要素のことである。その他にも、「フフ」「ヘヘ」「ホホ」など、微かな笑い声なども、同じカテゴリーに入るだろう。
 言語行為において、「意味伝達」のためにはなくてもよさそうなもの、あるいは、円滑な伝達のためにはないほうがよさそうに思える要素は他にもある。
 たとえ母語であれ、いや母語であるからこそ、あまり意識することなく、助詞・助動詞等を誤用していることも少なくない。これらの誤りは、「理論的には」、円滑な伝達及び相互理解を妨げるはずである。ところが、実際に聴いている間は、たいして気にならないことのほうが多い。話し手に示すことなく、聴く側がそれらの誤用を訂正しながら聴いているからだ。
 ある文を始めた後に、途中でそれを放棄し、あらたに文を起こすこともある。あるいは、ある文を始めた後に、やたらに挿入句を入れ込んで、文の構造を複雑化してしまうこともある。にもかかわらず、母語話者同士では、それらが特に意思疎通の妨げにはならないことも珍しくはない。
 ところが、発話行為のなかに自然に含まれているこれらの要素を文字に起こすと、実に読みにくい文章になってしまう。面と向かって話しているときにはそれらの要素に気づけなかったのに、録音を文字に起こすことでそれらの要素が浮き上がってくる。
 それは、実際の発話行為においては、いわば立体的で徐々に構成されていく動的な構造体のなかに聴き手も参加していて、その流れのなかで理解が成立していったのに対して、それを文字に起こしてしまうと、動的な発話行為が平面に固定され、動性を失い、実際の発話行為の現場に居なかった読み手にとってそれをもとの動的な立体に再構成するのはとても難しいからである。
 そこで、これらの「ノイズ」を含んだ話の録音を文字に起こすとき、多くの場合、編集作業が入り、それらを整理、修正、さらには削除してしまう。
 このような編集作業の結果として、読みやすいテキストが生まれる。しかし、実際に私たちが人の話を聴くときには、上掲の諸要素はそんなに気にならないどころか、それらの要素によってこそ表現されている、その人固有の感情や思考をわたしたちは受けとめている。
 ここのところこのブログで紹介してきた村上靖彦氏の著作に頻繁に引用されているインタビューでは、これらの要素が極力そのまま再現されている。それは、まさに正当にも、村上氏がそれらの要素によってこそ表現されているニュアンスがあると考えているからだ。思考の曲折、感情の屈折、発言への躊躇い、物事・事態を捉える視点の交代、状況における立場の揺らぎなどは、情報伝達的観点からは一見「不必要な」要素によってこそよく表現されていることがある。村上氏はそれらの要素を注意深く分析することで、話し手の思考の綾と感情の揺らぎを的確に捉え、それらを読み手にわかりやすく伝えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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