ある程度予想はできたことでしたが、昨日の記事のような親しみやすい話題のとき、拙ブログの普段の小難しい(あるいはクソ難しい)記事に比べて格段のご注目を賜り、アクセス数も閲覧者数も普段の倍、総合ランキングも366位まで上がりました。十一年以上このブログを続けていて、過去の最高位は265位ですから、拙ブログとしてはかなりの好成績でございました。昨日の記事にアクセスしてくださった方々に心より御礼申し上げます。
でも、正直に申し上げますと、ウケ狙い路線は疲れるし、結局、虚しい、です。自分の書きたいこと、書き留めておきたいこと、書き写しておきたいこと、それらを飽きもせず淡々と記事にし続けていく。それが私の性に合っています。
というわけで、今日からまた、連載「紫式部の生涯」に立ち戻ります。
新編日本古典文学全集(小学館、一九九四年)版の紫式部日記の解説からの摘録を再開する。式部の生涯についての私見は予定している摘録がすべて終わったあとに述べるつもりである。
式部の宮仕えの仕方は、他の女房たちとは著しく異なっていたようである。しかも、住み込みの勤務地であったはずの中宮彰子の後宮から、かなり自由に里下りつまり自宅に帰ることを許されてもいる。
以下は新編日本古典文学全集版解説からの文字通りの摘録ある。
「式部の宮仕え生活における役柄ははっきり定まったものではなく、中宮付きの教養面での世話係という程度のものであったらしい。日常は中宮の話相手はもちろんのこと、洗面や髪の手入れ、食事や衣装の世話、香・双六・和歌・音楽などの相手、訪問客や手紙の取次ぎなど、一般の女房と同じような仕事をしていたと思われるが、日記に見える草子作りや楽府進講などこそが、彼女ならではの職分であろう。」
「いささか不自然なのは、彰子付きの主要女房でありながら、公的な行事にも歴とした役柄はなく、里下りは自由でしかもしばしば長期間に及んでいる。このような待遇は、おそらく夫の死没前後に出された『源氏物語』の原初の数巻によって、ある程度の文才を認められており、主人側もその自由な宮仕えを許していたのであろう。宮仕え当初、中宮や他の女房たちから、自信ありげにとりすましていて親しみにくい人だと見られたのも、彼女の生来の引っ込み思案の性格や宮仕え嫌悪感に加えて、こうした文才についての前評判が災いしたとも考えられる。」
「しかし、このような状態も宮仕えの初期のころで、日記に記されたころの式部の宮仕えぶりを見ると、消極的ではあるが人嫌いではなく、気心の知れた朋輩とは結構楽しく付き合っている。また中宮や道長や倫子には特別に扱われているようであり、そのお陰もあってか、上達部や女房たちも決して疎略には扱っていない。それは『源氏物語』の執筆の進展によって、式部の文才が本当に周囲に認められて来たからであり、自らもそれに自信を得た結果であろう。」
「このように、中宮彰子のサロンにおける式部の宮仕え生活は、身分以上に好遇を受けており、それほど憂く辛いものではなかったはずである。それにもかかわらず、日記全体に漂う嫌悪感は、どう理解すべきであろうか。それはおそらく、若いころに経験した宮仕えのあまりよくない印象を核とした、社会の裏面や谷間をも見過ごさない作家精神のなせるわざであろう。自らの幸いよりも他人の不幸や社会の矛盾を鋭く感受し、それを吸収回帰することによって自らの幸いを打ち消し、陰の部分を助長するような精神作用が、式部の心の中で絶えず反芻されている結果。宮仕えを嫌悪し、世を憂しとする総評価が生まれたものと思われる。」
「式部の宮仕えは、はじめのニ、三年は里居がちで、あまり精勤ではなかったらしい。[…]そしてこの期間こそ、道長や倫子の庇護のもとに『源氏物語』を長編物語として着々と書き進めていた時期であったと思われる。この間のことに道長の強い後援があったことはいうまでもなく、当時貴重であった紙や墨の供給をはじめ、経済的物質的な援助を受けたことであろう。」
「このような道長の絶大な庇護があってこそ『源氏物語』は長編物語としての完成を見たといっても過言ではあるまい。そして式部自身も道長の寛大な包容力に惹かれ、やがてその情を受け入れるまでになったものと思われる。[…]日記に散見される道長への賛辞や温かいまなざしは、『尊卑分脈』に「御堂関白妾」とある注記を裏付けるもので、式部が道長の召人であったことは疑問の余地がないと思われる。」
「『源氏物語』は、物心両面における道長の強力な庇護のもとに、彰子中宮サロンないし道長・倫子をも含めた土御門サロンを初期の享受層として、世に送り出されたものと認められる。」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます