先日話題にした Georges Vigarello の Le sentiment de soi. Histoire de la perception du corps XVIe – XIXe に出てくる cénesthésie という概念についてスタロバンスキー の論文 « Le concept de cénesthésie et les idées neuropsychologiques de Moritz Sciff », Gesnerus, numéro spécial, Histoire de la nature et des sciences naturelles, vol. 34, 1977 が参照されている。すぐに読みたいと思ったのだが、同誌の電子版はないようで、ストラスブール国立大学図書館にでも出向いて閲覧するしかない。
それは万聖節の休みまで待つとして、スタロバンスキーの他の著作にも cénesthésie への言及が見られるかも知れないと思い、電子書籍版を所有している Le corps et ses raisons, Éditions du Seuil, coll. « La Librairie du XXIe siècle », 2020 を検索してみたら十箇所以上ヒットしただけでなく、巻末の事項索引にもちゃんと立項してあった。しかし、この本で、cénesthésie という概念が十九世紀に登場する経緯については、上掲の論文への参照が求められており、詳しいことはわからない。
ただ、cénesthésie についての言及箇所がもっとも多い巻頭論文 « Médecins et philosophes à l’écoute du corps » の終わりの方で « où tracer la ligne de démarcation entre une cénesthésie, qui serait l’une des données primaires de toute existence humaine, et une écoute du corps, qui serait, elle, la conséquence, hypocondriaque ou perverse, d’un investissement narcissique ou auto-érotique ? » という問いは避けがたいとしているのが注目される。
「(内的)体感」がすべての人間存在にとって原初的な所与であるのに対して、「身体の声を聴くこと」がナルシシズムや自体愛というヒポコンドリーや倒錯的傾向の結果でもありうるとき、両者の境界線はどこに引かれるべきか、という問いである。
身体の声に過度の注意を払うことは、外界との生き生きとした接触を阻害し、いわば自己身体への「ひきこもり」を引き起こしかねない。言い換えれば、身体の声があまりにも大きく体内で反響しているとき、それは魂の衰弱の徴なのかも知れない、ということである。
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