『ティマイオス』(講談社学術文庫)の紙版の書誌情報によると、本文は304頁であるから、訳者自身が「訳者あとがき」で言っているように、「分量的には小著」である。しかも、『ティマイオス』本文の訳自体は本書全体の半分以下であり、訳注が約2割を占め、訳者解説は3割を超える。この例外的な構成は、『ティマイオス』の内容そのものの哲学的「質量」の大きさとその解釈史の厚みと奥行きが桁外れであることを示している。
訳者解説の冒頭で訳者は『ティマイオス』の哲学史的な位置づけを次のように説明している。
現代のプラトン研究者に、プラトンの主著は何かと尋ねたら、おそらくたいていの人は『国家』と答えるだろう。確かに、『国家』にはプラトン哲学のエッセンスが詰め込まれており、質量ともに主著と呼ばれるのにふさわしい。それにもかかわらず、プラトニズムの長い歴史から見れば、プラトンの対話篇の中で最も大きな影響力をもった著作は『ティマイオス』であった。神による宇宙の制作とさまざまな自然学的理論が論じられる本書は、プラトンの対話篇の中ではむしろ特殊なものと言えるが、古くからプラトンの信奉者たちによって重視されてきた。とりわけ、前一世紀から後三世紀にかけてのいわゆる中期プラトン主義と、それに続く新プラトン主義の時代には、この書はプラトンの著作の中でも特権的な地位を占めてきた。古代後期から中世を通じてのプラトニズムの歴史は、『ティマイオス』の解釈史だったと言っても過言ではない。この伝統が近代まで及んでいることは、例えばラファエロの有名な壁画《アテネの学堂》の中で、プラトンが手にしている書物が『ティマイオス』であることに象徴的に現れている。
博士論文の中で西田幾多郎における〈場所〉について考察する箇所で、『ティマイオス』の中で初めて「コーラ」(chôra)という語が出てくる一節(52a-b)を参照したことがある。参照した Luc Brisson の仏訳(GF Flammarion, 1992. 現在入手できるのは2017年刊の改訂第6版)当該箇所には今でも付箋が貼ったままになっている。その箇所を土屋睦廣氏の新訳で引用しよう。
以上のことがそのとおりだとすれば、次のことに同意しなくてはなりません。すなわち、第一には、同一を保つ形相が存在します。それは生じることも滅びることもなく、自分の中によそから他のものを受け入れることもなく、自分がどこか他のものの中に入ってこともなく、目に見えず、他の仕方で感覚されることもないもので、これを考察することは知性の働きの役割です。これと同じ名で呼ばれ、これに似ているのが第二のものです。これは感覚されるもの、生じるもので、常に動いていて、ある場所に生じては再びそこから滅び去っていくもので、感覚とともに思惑によって捉えられるものです。また第三に、常に存在している場の種類があります。これは消滅を受け入れることなく、生成するすべてのものに居場所を提供し、感覚によらずに何かの非嫡出の理性の働きによって触れられるもので、かろうじて信じられるものです。まさにこれに目を向けながら、私たちは夢を見て、こんな主張をします。「存在するものはすべて、どこかある場所に、何らかの場を占めてあるのでなければならない。地上にも天にも、どこにもないようなものは、そもそも何も存在しないのだ」と。
博論では、プラトンの〈コーラ〉との違いを際立たせることで西田の〈場所〉について論じることが目的だったが、そのような狭隘な目的を離れて、今こうして久方ぶりに『ティマイオス』を清新な日本語訳で読み直すとき、生態学的観点という別の新たな光のもとにプラトンの宇宙論が立ち現れてくるような気がする。
『ティマイオス』の美しい最終節を引いて今日の記事を閉じることにする。
それでは、これで万有に関する私たちの話は今やすでに終わりに来た、と言うことにしましょう。というのも、この宇宙は、死すべき生き物と不死なる生き物を受け取って、このようにして満たされ、目に見える生き物を包括する、それ自身、目に見える生き物として、知性の対象の似像である感覚されうる神として、最大で、最善で、最も美しく、最も完全なものとして生まれたからです。これこそが、唯一無二の宇宙なのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます