内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

視線は身体の一部である ― プラトン『ティマイオス』より

2024-12-29 08:26:58 | 読游摘録

 ある本を、拙論のなかである議論を構成するための一齣としてその一節を利用するという浅ましい魂胆を離れて、虚心坦懐、とまで言えばこれは明らかに言い過ぎになるが、特にこれという目的もなく探しものもなく読むことで、実利のために読んだときには印象に残らなかった箇所がおのずから目に飛び込んでくるということがある。
 今回、今月の文庫新刊のなかで気を引かれたというだけで購入した『ティマイオス』を読んでいてそういうことが昨日あった。さっと一読みして、「あっ、これ、面白い」と直感的に思った箇所があった(45b-46a)。視線は身体の一部である、より詳しくは、自己身体の内部の火である視線は日の光の中で外なるものと同族として一体となり、全体として一つの身体を形成する、という話である。ちょっと長い引用になる。

 神々は器官の中でも光をもたらす眼を最初に作り上げて据えつけましたが、それは以下のような原因によってでした。すなわち、火の中でも焼くことはできないが、穏やかな(へーメロン)光をもたらすことはできるもの、日々の昼間(へーメラ)にふさわしいものを、神々は身体(眼の一部)となるように工夫しました。というのも、私たちの内部にはそれと兄弟である混じりけのない火があって、神々はそれが眼を通って流れ出るようにしたからです。その際、眼全体も滑らかで稠密なものにしましたが、とりわけ眼の中心部分を圧縮して、〔その組織よりも〕粗い他のものはすべて堰き止め、先に述べたような純粋な火だけが通り抜けるようにしました。それゆえ、視線の流れの周囲に昼間の光があるときには、似たものが似たものへと飛び出していって一緒になり、眼から一直線上に、内から出ていくものが外からやって来るものと衝突して抵抗する方向へと、同族のものとなった一つの身体が形成されました。すると、その身体全体は同質なので、作用も同様に受けることになり、自分が何に触れようと、他の何が自分に触れようと、それらのものの運動を、その身体全体を通して魂まで伝達し、私たちがそれによって見ると言っている感覚をもたらしました。
 しかし、夜になって同族の火が退くと、それ(視線)は断ち切られてしまいました。なぜなら、それは似ていないものに向かって出ていくので、自分が異なったものとなって消えてしまうからです。隣接する空気は火をもっていないので、それと一緒に結びつくことがもはやできないからです。したがって、それは見ることをやめ、さらに眠りを誘うものとなります。というのは、神々が視覚を保護するために工夫した瞼というものが閉じるときには、それは内部の火の力を閉じ込めるので、その力が内部の運動を分散させて均等にし、運動が均等になると平静が生じるからです。その際、生じた平静が大きいときには夢の少ない眠りがやって来ますが、何か比較的大きい運動がまだ残っているときには、それがどんなもので、どこにのこっているかによって、それに応じた種類と量の幻が生じます。その幻は、内部で映し出されたものなのに、目覚めたときには外部にあったかのように思い出されるのです。

 この所説を鵜呑みにするわけにはいかないけれど、「世界の見方を学び直す」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』序文)ための一つの契機には充分になると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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