昨日話題にしたル・モンド紙の記事のうち授業で翻訳の課題対象としたのは最初の三分の一くらいで、学生たちの日本語訳はおよそ800字前後である。
その部分の最後の一文は、 « les statistiques qui fondent les calculs des algorithmes tendent à réduire le possible au probable, et que cela est en contradiction avec la singularité de la langue, qui est une condition de toute pensée véritable. » となっている。「アルゴリズム計算の基礎となる統計データは、可能性を蓋然性に縮小する傾向があり、このことは、すべての真の思考の条件である言語の特異性と矛盾する」というほどの意味である。
「ありうること」を過去のデータに基づいて「ありそうなこと」へと還元してしまうのが統計であり、それに基礎を置くアルゴリズム計算は、人間の真の思考の条件であるところの、これまではなかったけれども「ありうる」ことを考えるができるという言語の特性とは相容れない。筆者はそう言いたいのであろう。
この一文で言及されている言語の特異性について、同記事の後続部分にさらに立ちった説明があるわけではないから、これ以上突っ込んでもしょうがないのだが、アルゴリズム計算は必ずしも思考の自由を妨げるわけではなく、むしろそれを基礎づけもするのであるから、このような一面的な論拠によってAIに対して人間の自由で創造的思考を擁護することは難しいと思う。
ただ、統計データ、蓋然性、さらには必然性のみに依拠し、偶然性を排除してしまうことが思考の自由、創造的な発想、未知なるものとの邂逅へと開かれた心などを萎縮させてしまうということはあるだろう。
九鬼周造は『偶然性の問題』の序説で、レフ・シェストフの『悲劇の哲学』なかの言葉を借りて、「我々は「この世界の中に何らか統計学と「必然性」以外のものを発見しようという希望を棄てることを欲しない人たち」に属する」と宣言している。九鬼が参照しているのは『悲劇の哲学』の仏訳(1926年)で、 その原文は « ceux qui ne veulent pas renoncer à l’espoir de découvrir dans le monde autre chose que la statistique et la « nécessité » » (Léon Chestov, La philosophie de la tragédie, Le Bruit du Temps, 2012, p. 49) となっている。
AIがあらゆる分野を席巻する現代、「偶然性の存在論的構造と形而上学的理由とをでき得る限り開明に齎すことを願う」『偶然性の問題』は新たな光の下に読み直されるべきときなのかも知れない。
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