先日全四話を観終えたNHKBSドラマ『母の待つ里』の原作、浅田次郎の同名小説を先程読み終えた。
ドラマや映画を観てからその原作である小説や漫画を読むということがときどきある。ドラマや映画が良かったからこそ原作に対する興味も湧いて読もうと思うのだから、どうしても先入観や期待値をもって読むことになる。読んだ結果として、どちらもそれぞれに良いと思えるとき、原作の方が良いと思えるとき、その逆もある。
今回はどちらも素晴らしかった。原作小説にはドラマには出てこない場面や登場人物が少なからずあるが、それはそれで物語に奥行きと広がりを与えているし、登場人物たちの感懐の叙述はそれぞれの心の襞をより間近に感じさせてくれた。
ドラマ・映画を観てから原作へという「逆順」の難点は、登場人物を演じた俳優さんたちのイメージを振り払って原作を読むことが難しいことである。原作からドラマ・映画へという「正順」のときは、その問題はないかわり、自分が想像していたイメージと著しく異なる配役だとそれだけで観る気が失せてしまう。
今回の「逆順」でも同じ問題が発生した。母「ちよ」は宮本信子、松永徹は中井貴一、古賀夏生は松嶋菜々子、室田精一は佐々木蔵之介とどうしても重なってしまう。宮本信子はまさに「ちよ」であり、他の誰も想像できないくらいに素晴らしい演技だったから、重ねて読むことになんの違和感も覚えず、徹も中井貴一と重ねて読むことにほとんど違和感を覚えなかったが、近々六一歳で定年を迎える夏生と松嶋菜々子にはかなりイメージの隔たりを感じた(若すぎるし、美しすぎです)。でも、小説には顔立ちや体型についての描写がほとんどないからまあよしとして、小説ではむしろ太っているという描写があった室田精一は、まったく佐々木蔵之介のイメージとは重ならなかった。彼の演技がよかったからこそ、両者の隔たりを「修正」しがなら読むのはちょっとやっかいであった。
原作とドラマに共通する素晴らしい点を私なりに一言でまとめると、このブログで過去に何度か話題にしたことがある「なつかし」と « nostalgie » と « Sehnsucht » という三つの感情が見事に融合された作品だということになる。
東京生まれの東京育ちに「ふるさと」はない。しかし、そのありえない「ふるさと」に帰りたいという成就不可能な帰郷願望が引き起こす鬱屈した感情が nostalgie である。ドイツ語の Sehnsucht は、自分でもどこだかわかってはいないのだが、今ここではない別の場所を本来的な場所として希求する心の疼きである。そして、古語「なつかし」は、いつまでもそこに居たい、いつまでもその人の側に居たい、もっと近づきたいという愛着感情が原義である。
この三つの感情が、主たる登場人物である三人、松永徹、古賀夏生、室田精一それぞれのなかで〈母〉「ちよ」と過ごす時間と交わす言葉と身体的な触れ合いを通して融合していく過程が原作でもドラマでも絶妙なバランスで描き出されている。
その過程のなかで虚実の境界が揺らぎはじめ、〈母〉と過ごす時間の中で虚が実に成り、実が空虚に感じられ、〈母〉のもとへと帰りたいという思いがつのったときにその〈母〉が現実に死ぬ。しかし、それは虚構の終焉ではない。もはや〈母〉がいない現実世界に取り残された〈子ども〉たちは、〈母〉との絆によって生まれた〈ふるさと〉においてそれぞれ新たに生き始めようとするところで物語は終わっている。
ふるさとなき〈子ども〉たちが〈ふるさとの母〉の無償の愛によって新たな生き方を見出す再生譚として私はこのドラマを観、原作を読んだ。
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