昨日の記事で引用したエピクテトスの『語録』第三巻第一三章の冒頭だけを読むと、人間は孤独にならないためには信頼できる人が支えとして是非とも必要だという帰結が導かれてしまいそうだが、それではエピクテトスの意図に反する。
昨日の引用箇所の後に、ゼウスでさえ世界燃焼(エクピュローシス。世界は火から活動を始め、最後に万物を燃やし尽くす世界燃焼によって消滅し火に戻り、これを永遠に繰り返すとするストア派の思想)の後に他の神々たちを失って孤独を嘆くと考える人たちがいるが、これはひとりで生きるということがどういうことかわかっていないから、その人たちが導き出してしまう誤った帰結だとエピクテトスは言う。
しかし、人はこれに対して、少しも劣ることなく自分で自分に満足することができ、自分で自分と交わることができるように準備しなければならない。ちょうどゼウスが自分で自分とともにあり、自分自身において安らい、自分の支配がどのようなものであるかを考え、自分にふさわしい計画を立てるように、われわれもまた、自分で自分と語ることができ、他人を必要とせず、生を送るのに困ることがないようにしなければならない。神の支配や自分とほかのものとの関係について反省し、自分に起きてくることに対してかつてはどのような態度をとり、現在はどのような態度をとっているか、また自分を苦しめるものが何であり、いかにすれば取り除かれるのかを考え、これらのうちで遂行されるべきことがあるとすれば、それらの道理にしたがって遂行されねばならない。
ゼウスと引き比べて、「われわれもまた、自分で自分と語ることができ、他人を必要とせず、生を送るのに困ることがないようにしなければならない」と言われてもねぇ、少なくとも私のような凡夫のきわみには土台無理な話である。
自分で自分と語ることはこのブログにおいて私なり実践してはいるが、それだけではひとりで生きていけないし、日々困ることばかりだ。
しかし、ここで「話になんねぇんだよ」と『語録』を放りだしては元も子もない。もう少し辛抱して先を読みながら、エピクテトスから何を学べるのか私なりに考えてみよう。
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