内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十三)― 比喩の陥穽

2017-03-11 18:51:43 | 哲学

 昭和十六年に刊行される『国語学原論』(以下『原論』と略記)は、昭和十二年から同年にかけて発表された十数の論文をまとめることによって成り立っており、各論文のそれぞれの執筆当時の意図とそれらが『原論』に統合化される際に同書の中で与えられた位置づけとの間にずれがあり、そのことが『原論』を難解な書にしているところがある。
 しかし、そのような『原論』構成上の難点と、『原論』の理論構成そのものに内含されている困難とは区別されなくてはならない。なぜなら、後者の問題は前者の問題には還元されえず、後者こそが私たちが慎重に考察しなければならない問題だからである。
 言語は、その存在条件として主体・場面・素材の三者を必要とする。これが『原論』の基礎的テーゼである。このテーゼを少し展開してみると、個々の言語(ラング)は、主体・場面・素材を根本条件とする一般的言語過程においてのみ言語として機能する、ということになる。言い換えれば、言語は、誰か(主体)が、ある状況において誰かに対して(場面)、何物か或いは何事かについて(素材)語ることによって成立する、ということである。
 一見すると明快な主張のようであるが、何か納得し難いところがあると感じた人は論文発表当時から少なくなかったのであろう。『原論』「総論」で、時枝は、主体・場面・素材の三者の関係について様々な比喩を持ち出して説明に苦心している。
 ところが、それらの比喩は、時枝理論の理解を助けるどころか、むしろ時枝本人の意図を裏切り、無益に問題を複雑化し、挙句いらぬ誤解を生み出す原因にさえなっているように思われる。それらの比喩的説明が引き起こすそのような混乱と困難は、しかし、時枝が不注意にも不適切な例を引き合いに出したから生じただけのことなのであろうか。
 私には、それらの比喩の中に言語過程説の根本問題が期せずして露呈してしまっているように見える。













戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十二)― 言語過程説の成立の地盤

2017-03-10 13:30:03 | 哲学

 鈴木論文「言語過程説の成立と文法」は、大正十四年提出の卒業論文以後、時枝の国語学研究がどのような展開を見せているかを、昭和七年(1932)に発表される岩波講座日本文学『国語学史』までを一区切りとして、その間に発表されたいくつかの論文の内容に言及しながら辿り直している。
 それらの論文は、「卒業論文の部分的発展であると同時に、常に過去の国語研究を顧みるための基本的態度を問題としている(前掲書165-166頁)。この後をうけて、上掲の『国語学史』が書かれたわけであるが、その「はしがき」には、卒業論文での執筆態度からの方針転換が示されている。鈴木によれば、「国語研究の歴史の中に自らの言語観の源流を見出し」、「『国語学史』を以て、その言語観の理論構成とその理論による実証的研究への出発点としたのである」(166頁)。
 そこに見られるのは、日本の過去の言語理論に対する歴史的アプローチから、その理論的考察の対象にほかならない日本語そのものの「凝視」、その中への「沈潜」への方法的態度の転換である。
 この転換は、具体的には、昭和五年から八年にいたる『源氏物語』の通読、昭和七年から十八年に至る「中古語研究」の題目の下に『源氏物語』をテキストとして行われた京城大学における国語学演習となって現われる。その成果は、論文として同時期に次々と発表されていく。
 それらの論文について、鈴木は丁寧に内容を解説してくれているが、特に昭和十二年に『国語と国文学』三月号に発表された論文「文の解釈上より見た助詞助動詞」を、言語過程説成立のための重要な段階として重視し、詳細に紹介している。
 この論文の三ヶ月後に『文学』誌上に発表される「心的過程としての言語本質観」とそれ以降の時枝論文だけを読むと、言語過程説の理論構成がソシュール批判の上に成り立っているとの印象をもってしまいがちである。この印象は、同論文をほぼそのまま取り込んだ『国語学原論』の「総論」を読んでも変わらない。
 しかし、鈴木が強調するように、論文「文の解釈上より見た助詞助動詞」が書かれるまでの経緯を辿ると、「言語過程説の理論が形成され、組織されて行く直接の地盤は、あくまで、江戸時代以前の国語学研究者の意識にあったので、ソシュール理論の批判の上にそれが打ち建てられたとは考えられないのである」(176頁)。言い換えれば、「ソシュール批判の部分を抹殺しても、言語過程説はそれ自体独立した学説として充分批判に耐え得るのである」(同頁)。
 これをさらに私なりに言い換えれば、時枝のソシュール批判が誤解に基づいた的外れなものであるという時枝に対する批判は、言語過程説の核心に触れるものではない、ということになる。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十一)―〈事〉的言語本質観の生誕地

2017-03-09 20:39:34 | 哲学

 すでに拙ブログの三月一日付の記事で引用した鈴木一彦の論文「言語過程説の成立と文法」(『講座 日本語の文法 1 文法論の展開』、明治書院、昭和43年、p.160-213)は、言語過程説の成立過程に関して、大正十四年(1925)に提出された時枝の学部卒業論文「日本における言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法」から昭和十六年(1941)に刊行される『国語学原論』に至るまでの十六年間の時枝の国語学研究の進展・展開をつぶさに跡付けている。この鈴木論文を今一度丁寧に読むことで、言語過程説の成立過程の追体験を試みてみよう。
 時枝が東大に入学したのは大正十一年のことである。当時、言語学・国語学を専攻するためには、その方法論を、まず西洋近代言語学から学びとることが常識であり、定石であったという。時枝も入学当初はこの定石に従い、西洋近代言語学を学んだ。ときに反発を覚えながらも、国語学教室の優れた教授陣からは多くを学ぶ。
 ところが、日本の古い国語研究を瞥見したとき、明治以前の国語学に、西洋言語学にないある合理性を時枝は直感する。それが上掲の卒業論文を書かせる動機であったと考えられる。
 東大入学の翌年の大正十二年、関東大震災が発生する。この震災で、東大の国語研究室の蔵書はほとんど烏有に帰してしまう。
 鈴木が言うように、「こうした事々が、国語研究の根本問題に取り組もうという決意を促した大きな内的外的条件であった」(163頁)であろうと推測される。
 時枝の卒業論文の一節に次のような立言がある。

我々ガ通常言語トイフトキ、ソレハ如何ナルモノヲ指シテ言語トイフノデアラウカ。明カナル如クニシテ実ハ漠然トシタ対象デアル事ヲ忘レテハナラナイ。「言語トハ何ゾヤ?」トイフ疑問ハ換言スレバ、「如何ナルモノヲ我々ハ言語ト命名シテ居ルカ?」トイフ問題ニ帰着シテ来ル。コノ問題ヲ考ヘテ、私ハ言語ハ絵画・音楽・舞踊ト等シク、人間ノ表現活動ノ一ツデアルトシタ。然ラバ言語ト云ハレルモノハ如何ナル特質ヲ持ツモノデアルカヲ考ヘテ、始メテ、言語ノ本質ヲ得ルデアラウトイフ予想ヲ立テタノデアル。

 この一節を読んだだけでも、言語の本質を人間の表現活動と見る考え方、つまり、「言語はモノではなくコトである」という言語本質観は、このころすでに胚胎していたということがわかる。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十)― 方法論的態度の確認

2017-03-08 20:51:33 | 哲学

 言語過程説の理論の形成を研究対象とするとき、次の三つの観点それぞれからその形成過程を分析した上で、それらの分析結果の相互関係を考察しなければならないと私は考えている。その三つの観点とは、第一に、その理論自体の内的発展過程、第二に、その理論と他の諸理論との相互限定的な力動的関係、第三に、その理論とそれが形成される時代状況との緊張関係である。
 そう考える理由は、一般に、一つの生きた思想をそれとして捉えるには、その思想の論理の内的発展、その思想の弁別的価値を決定する他の諸思想との直接的な区別と関係、そして、その思想が形成された時代状況という三つの次元でその思想が考察・検討・批判されなくてはならないと考えているからである。しかも、この三つの次元が有機的に連関した三次元として掌握されるためには、それらを論ずる本人が思想的にどこに立っているのかを絶えず示すという、「自らを歴史の中に書き込む」という方法論的態度がその前提となる。
 このような方法論に基づいて、明日から、改めて、言語過程説を考察していく。













戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(九)―〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応

2017-03-07 19:09:33 | 哲学

 時枝が自身の国語学の構想のために山内得立『現象学叙説』からいかに多くのことを学んだとしても、そして、京城帝国大学教授のポストを擲ってまでも京大の山内の下で現象学の勉強をしたいとまで思い詰めた時期があったとしても、言語過程説の理解に現象学の理解が不可欠なわけではない。おそらく、零記号という独創的な発想は、ノエシスという現象学的概念に触発されて生まれたのではないかと推測されるが、それ以外の点では、言語過程説の説明に〈ノエシス-ノエマ〉という意識構造の契機を持ち込むことは、かえって説明を混乱させるばかりか、哲学的に重大な誤解の原因にさえなりかねない。
 避けるべき誤解は、さしあたり、以下の二点に関わる。
 第一点目は、〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応という問題である。ノエシスとノエマは、意識構造において、定義上、現象の中に組み合わされた共に観察可能な二つの契機として現れるわけではない。言い換えれば、ノエシスは、それ自体としてはノエマのように表象することはできない。見えている或るものがまさにそのように見えているということを成り立たせているのがノエシスと呼ばれる作用である。ところが、時枝がノエマに対応させる〈詞〉もノエシスに対応させる〈辞〉も、言語現象としていずれも観察可能である。両者の違いは、一つの思想を表現する言語活動における機能の違いであって、意識の構造契機としてのノエマとノエシスとの違いにそのまま対応するわけではない。もし対応するのならば、日本語においては、意識の〈ノエマーノエシス〉構造を言語現象として対象化して分析することが可能だ、という帰結が導かれてしまう。しかし、このような帰結は、両概念の現象学における基本的な定義からして、誤りとして否定されなくてはならない。
 このような〈ノエマ-ノエシス〉構造と〈詞-辞〉構造の非対応という問題は、思想と言語との関係というより大きな問題へと私たちの立ち返らせる。これが避けるべき誤解に関わる第二の論点である。
 時枝の言語観を、ごく簡単に図式的にまとめてしまえば、文は思想の表現であり、思想は客体と主体との結合から生れるのだから、文の成立の第一条件は、客体的要素と主体的要素とが何らかの仕方で結合していることである、となるであろう。時枝によれば、日本語においては、これら二要素がそれぞれ詞と辞とに対応している。
 しかし、「文は思想の表現であり、思想は客体と主体との結合から生れる」という一般的規定はすべての言語に適用されなければならないはずである。とすれば、日本語のように詞と辞との結合から成るのではない言語の場合は、客体的要素と主体的要素との結合の仕方が異なっている、言い換えれば、その結合が異なった仕方で表現されているはずである。そうでなければ、どのような言語であれ、それが思想の表現であるのならば、日本語における詞と辞との区別と同様な区別を備えていなければならないことになってしまう。この推論をさらに推し進めれば、〈詞-辞〉構造を有たない言語は、思想を表現することができない、という驚くべき結論に至ってしまう。
 もちろん時枝自身がこのような極端な主張をしたわけではない。しかし、今、フッサール現象学に対するあらゆる解釈と批判は括弧に入れて、「意識の基本構造はノエシス-ノエマ構造である」というテーゼを基礎的措定としてそのまま受け入れるとしよう。そうすると、一般に、意識構造は、特定の言語の構造には左右されないはずであり、したがって、意識構造がある特定の言語においてのみ言語構造として顕在的に反映されるということ、つまり、特別に「現象学的な」自然言語が存在するということはないはずである。
 問題を大きくしすぎて、議論を拡散させ、散漫な思考に陥らないように、私たちは、ここで一旦現象学を離れ、時枝の言語過程説そのもの検討に入っていこう。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(八)― 現象学からの逸脱としての〈主体的なもの〉

2017-03-06 15:15:33 | 哲学

 一昨日の記事で引用した時枝最晩年の講演記録の中で、時枝は、「客体的なものと、それに働きかける人間の主体的なもの、その合体によって、人間の思想の表現というものは成り立つ。これが、日本の伝統的な、文法の根本にある考え方じゃないか」と述べている。そして、その直後に、フッサールの現象学がなぜそのような日本語の伝統的文法の理解の助けになったかを説明している。その箇所も一昨日すでに引用した。時枝による山内得立『現象学叙説』の叙述のその要約は、一見すると、同書に忠実なものである。
 ところが、主体概念に関して、両者には埋めがたい溝がある。
 まず、「主體」という言葉は、山内得立の本にはたった二回しか使用されておらず、しかも、時枝が「主体」に与えている意味とはまったく反対の意味で使われているのである。

ノエマ的核とは種々なるノエマ的意味の、それを中心として群屬するところの或るものである。いはゞノエマ的核は種々なる意味を擔ふところの同一者であり、樣々なる賓辭の附け加はるべき主體である。(山内得立『現象学叙説』、岩波書店、昭和4年、353頁)

 つまり、「主體」とはノエマ的核であり、様々なノエマ的意味の支えとなるものであり、意識作用としてのノエシス側に属するものではない。時枝にとっては、まったく反対に、主体とは、ノエシスという志向作用の担い手なのである。
 そして、山内の記述と時枝の理解とのもう一つの重要な「ずれ」は、山内は、いわゆるフッサール現象学の一般的解釈に忠実に、ノエシス・ノエマとは意識の構造契機であるとしているのに対して、時枝においては、ノエシスとノエマとの関係は主体と客体との関係であり、主体は意識の構造契機に還元されるものではない。時枝における主体は、いわば、意識の構造をはみ出してしまっているのである。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(七)― 時枝における現象学への関心の深度

2017-03-05 19:09:14 | 哲学

 時枝の現象学への並々ならぬ関心が胚胎したのはいつごろのことなのか。それを十分な確からしさとともに推定するだけの根拠が今私の手元にはない。昭和二年に京城帝国大学への赴任が決まり、その数カ月後には一年半の欧州留学に旅立っているが、この留学中に時枝が具体的に何を学んだのか詳らかにしない。留学後、京城帝国大学に昭和十八年まで勤務することになる。おそらく、その比較的早い段階で現象学に強い関心をもったであろうと推測させるエピソードが一つある。
 今、手元に昭和四十七年三月発行の『國文學 解釈と教材の研究』臨時増刊がある。この増刊号は、「敬語ハンドブック 現代語・古典語」と銘打たれおり、一見、時枝誠記とは関係がなさそうである。確かに、同増刊号に収録された論文の中には時枝に言及している箇所が若干見られるが、ほとんどの論文は時枝文法とは直接関係がない。ところが、巻末に、国文学者で京城帝国大学での時枝の先輩同僚であった高木市之助(1888-1974)の「時枝さんの思出」というエッセイが収められているのである。
 そのエッセイによると、高木市之助が京城帝国大学の国語学のポストに相応しい人物の推薦を橋本進吉に頼んだところ、橋本は将来有望な新卒者として時枝の名前を挙げたという。しかし、推薦者の橋本も、時枝が植民地行きを承諾するかどうかは危ぶんでいたという。結果としては、話はとんとん拍子に運んだとある。
 留学後、京城帝国大学での研究生活に入ってからどれくらい経ってからのことか、高木は明記していないし、このエッセイの執筆時からすでに四十年近く前のことであるから、細部において記憶に誤りがあるかもしれないが、以下に引用する高木によるエピソードは、時枝の現象学への学問的関心がけっして自身の国語学研究にとって補助的なものではなく、その展開にとって現象学が決定的に重要な役割を果たすと時枝が確信していたことを印象深く語っている。

 それについて思い出されるのは時枝さんが教授時代の或る日のこと、突如私の宅を訪れ、京城大学を辞して京都大学へ聴講に行きたいと言出されたことである。あっけにとられている私の前で時枝さんが語られた理由は、

自分の国語学は現象学を必要とする段階に差しかかったが、自分はこの方面の知識に比較的弱いので、今自分が信頼する××教授の許で勉強したい。

というにあった。これはつまり時枝さんにとって、自分の学問の操守の前には、大学教授やそれに付随する一切が魅力を喪失したことに他ならなかったのである。
 私が時枝さんのこの決意を翻えさせるためにどんな苦労をしたかについては、当時このことに協力して頂いた麻生さんが知っていて下さると思うが、常識的に言って、大学教授の職というものは自分の勉強のために犠牲にしなければならないほど窮屈なものとは思われなかったので、私達は時枝さんの辞職が京城大学の講座をどんなに窮地に陥れるかについて百方口説いて結局時枝さんを思い止まらせることに成功はしたが、時枝さんにとってはこの断念がどんなに不本意なものであったか。時枝さんの常識はずれの、国語学に対する操守の前に屈服しつつも、時枝さんにこの卑俗な常識を護って貰うためにのみ私達は働かなければならなかったのである(214-215頁)。

 昭和四年に刊行された山内得立の『現象学叙説』を時枝がいつごろ読んだのか、正確なことはわからない(初刷刊行時の山内の肩書は東京商科大学教授。私が所有している昭和五年一月発行の第三刷でも同様。しかし、山内は、昭和四年、京都帝国大学に文学部講師として転任)。いずれにせよ、三十歳を過ぎてまだ間もないころでだったであろう将来有望なこの少壮学者に帝国大学教授のポストを擲ってまで京都に行きたいと山内のこの一書が思わせたのである。同書の何が時枝をここまで思いつめさせたのであろうか。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(六)― 時枝とフッサール現象学との出会い(承前)

2017-03-04 17:30:31 | 哲学

 「時枝文法の成立とその源流 ―鈴木朖と伝統的言語観」という講演記録の中で、時枝は、鈴木朖の『言語四種論』を理解するために、鎌倉時代にできた『手爾葉大概抄』まで遡る。そしてそこからの伝統的言語観を特に詞と辞との区別に焦点を合わせて辿り直した上で、こうまとめる。

その根本の考え方というものは、つまり、客体的なものと、それに働きかける人間の主体的なもの、その合体によって、人間の思想の表現というものは成り立つ。これが、日本の伝統的な、文法の根本にある考え方じゃないかと、私は思うんです。(22-23頁)

 この直後に、なぜフッサールの現象学が日本語の特質の解明の手掛かりになったかが述べられる。

 先ほど、フッサールのことを申しましたが、フッサールの現象学が、なぜ私がこれを解明する一つの助けになったかと申しますと、これは山内得立先生の説明によって、こういうことを学んだわけなんですが、フッサールは人間の意識を分析いたしまして、まず一つは、人間を取り巻くところの客観の世界、これをフッサールは、対象面、noema というふうに言っております。ご存じですね。それからもう一つ、その対象面に働きかけるところの人間の働きですね。これを志向作用noesis というふうに言っております。つまり、noema と noesis、 対象面と、それに働きかける志向作用の合体によって、人間の意識というものは成立する。でありますから、たとえばうれしいという感情は、ただうれしいという感情だけじゃなくて、うれしいことの、なにか対象面がある。それは、はっきりしたものであろうとなかろうと、かまわないんですが、なにか対象面があって、それに対する働きかけによって、そこに人間の、うれしいということが出てくる。ですから、現象学の有名な言葉で、<うれしいというのは、うれしきことに対するうれしいことである>というふうな説明がありますが、そういうことなんですね。つまり、noema の表現が、さっき言いました「詞」の表現、noesis の表現が「手爾呼波」と、こういうふうに、一応の説明ができると思うんです。(23頁)

 時枝のフッサール理解が不充分であること、山内得立『現象学叙説』の時枝による読解にも問題があることは明らかなのだが、それを批判したところで、哲学的にはほとんど生産性がない。時枝自身、上掲引用文の直後に、「ところが、日本の古代文法を、フッサールの哲学で説明したって、なんにもならないんで、ただ理解の手がかりになるだけです」と言っているのだから。
 今日のところは、時枝が、日本の伝統的文法の理解の手掛かりとして、フッサール現象学から何を学んだかを確認し、その文脈で「人間の主体的なもの」という表現が使われていることを確認するにとどめる。












戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(五)― 時枝とフッサール現象学との出会い

2017-03-03 19:03:02 | 哲学

 『講座 日本語の文法 1 文法論の展開』(明治書院、昭和43年)の巻頭に置かれているのは、「時枝文法の成立とその源流 ―鈴木朖と伝統的言語観」と題された時枝の講演記録である。当初の計画では、時枝自身が巻頭論文を書く予定であったが、病状の進行からそれが無理になり、その代わりとしてこの講演記録が収められたという経緯がある。この講演は、時枝の死の前年の昭和四十二年(1967)の六月七日、鈴木朖の没後一三〇年記念祭に鈴木の生地名古屋に呼ばれて行われた。本書に収められた記録は、その講演の録音をできる限り忠実に文字化したものである(鈴木一彦による「あとがき」による。27頁)。
 すでに二月二十七日の拙ブログの記事で触れたことだが、時枝が書くはずであった論文の題名は「『時枝文法』は時枝文法に非ず」だった。その題名に込められた時枝の意図については、同記事に引用してあるので繰り返さないが、講演記録はその意図に沿って行われたものではないし、誤解も招きやすいとの編集委員たちの判断で、上掲のような「素直な」題名に変更された。
 この講演の中で、時枝は、鈴木朖の著書と自分との出会いから説き起こし、それに付随した自分に関係したこと並びに当時の自分の感懐・見解等を、時の流れに沿って、生き生きと語っていく。それらの箇所を読むと、時枝が当時の日本の言語学の主たる傾向にどのような違和感を覚えていたかがよくわかる。

ヨーロッパの学者のやっていることに近いことをやったから価値があるということは、どうも受け取れないんじゃないか。[...]ヨーロッパの学者のやったことに近いからじゃなくて、日本の国語の研究が、ある流れにおいて、一つの歴史的位置を占める、そういう意味で価値があるんじゃないかというふうに、私は考えたわけです」(3頁)。

 時枝は大正十三年(1924)に学部卒業論文を提出している。その卒論の中で、日本の国語研究の歴史を古代から近世まで辿り直しており、その一環として鈴木朖の三部作『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』も考察対象となったのである。ところが、その当時は、『言語四種論』での鈴木の真意がよくつかめなかったという。
 同書についていくらかものが言えるようになったのはずっと後のことで、その手掛かりを与えてくれたのが山内得立の『現象学叙説』だったという(時枝講演の中では『フッサールの現象学序説』となっているが、これは時枝の記憶違いである)。同書は昭和四年(1929)に初版が刊行され、以後何度か増刷されている。時枝が同書を読んだのがいつごろか正確にはわからないが、勤務先の京城大学の同僚の哲学研究者の宮本和吉(1883-1972)の指導を受けながら『現象学叙説』を読むことで現象学について勉強したという(12頁)。
 宮本の京城大学勤務期間は昭和三年から十八年まで、時枝のそれは昭和二年から十八年まで。つまり両者はほとんど重なっていたわけである。
 李暁辰(関西大学)の論文「京城帝国大学と台北帝国大学の開設と哲学関連講座」(文化交渉 東アジア文化研究科院生論集 第 2 号、2014)に示された京城帝国大学の哲学関連講座の担当教員一覧を見ると、六番目の帝国大学として大正十三年に創設された京城大学の哲学関連講座を担当した教員は全員が東京帝国大学出身者であり、京都学派との繋がりについては、安倍能成(1926-1938)を介しての間接的な接点しか推定することができない。因みに、同論文によれば、昭和三年創設された台北帝国大学の哲学関連講座は、東洋哲学担当者を除いて、全員京都帝国大学出身者である。その中には、京都学派の務台理作(1928-1934)、柳田謙十郎(1929-1940)の名前も見られる(括弧内は在任期間)











戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(四)― 時枝理論の共時的理解のために必要な手続き

2017-03-02 20:34:32 | 哲学

 昨日の記事で紹介した鈴木論文にはまだまだ学ぶべき点が含まれているのだが、それらには後日立ち戻ることとして、今日の記事では、その論文の次に置かれた森岡健二の論文「言語過程説の展開」の第一節「時枝学説と昭和初期の学問の動向」に一瞥を与えておきたい。当時の国語学を取り巻く学問的傾向についての当事者の一人の証言として興味深いからである。
 森岡は、昭和十二年に東京帝国大学に入学、十五年には同大学院に進学しており、本人の言によれば、「まさしく時枝旋風のさ中に学生生活を過ごしたといっていいかもしれない」ということである(214頁)。他方、森岡が学生の頃は、ソシュールの一般言語学講義の小林英夫訳『言語学言論』(昭和三年末刊行)が出版されてからすでに十年近く経っており、「ソシュールを学ばずして、国語学にはいって行けない有様であった」という(同頁)。つまり、当時の学生たちは、〈ソシュール〉対〈時枝〉という「まさに対立する学説の渦中にあったのである」(同頁)。
 そのような状況の中で、言語過程説を、新しい時代の動きとして、他の西欧思想の動向との関連においてとらえていたと筆者は言う。昭和初期の哲学界の動向について、門外漢の自分には正確にはわからないがと断った上で、「ディルタイ(Wilhelm Dilthey)およびその一派が日本に大きな影響を与えていたことは確かだと思う」と証言する(215頁)。
 その証拠の一つとして筆者が挙げている例が興味深い。本人が受験した昭和十二年の東大文学部の入試に「ディルタイの哲学について概説せよ」という問題が出題されたというのである。その主題に対して用紙いっぱいに答案を書いた覚えがあるという。つまり、この事例は、ディルタイの思想が当時「ある程度一般教養として普及していたことを物語るものであろう」ということになる。
 そして、このディルタイの思想を背景にすることによって、実際、「時枝学説は理解しやすく受け入れやすいものとなった」と森岡は言う(同頁)。
 ディルタイによれば、自然科学とは厳密に区別される精神科学においては、精神生活を全一的な意味連関として捉え、直接的に追体験しなければならず、これがすなわち「理解」( « verstehen ») だということになる。精神生活は、それ自体が何らかの価値目的を含み、そのため一切の機能を意味ある全体に統一している。それゆえ、この種の対象を正しく認識するためには、認識主体(観察者)が対象の内からの統一に合致するように追構成することによって、対象を追体験しなければならない。
 確かに、このディルタイによる認識主体の立場の規定を前提すると、時枝理論が前面に打ち出す主体的立場がより理解しやすくなる。時枝の対象認識方法は、「当時の精神科学のそれと全く一致していると考えられる」(218頁)とまで森岡は言う。
 時枝理論の通時的理解のためには、日本の伝統的文法体系の系譜を辿り直す必要があることは言うまでもないとして、同理論の共時的理解のためには、上の森岡の証言にも見られるように、単にソシュールとの対質だけでなく、広く当時の哲学思潮の中に時枝理論を位置づけて考察する必要がある。