内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

入力重視の授業から出力促進の授業への転換ための一つの試み ― 古典文学の講義を通じて

2018-10-11 19:58:59 | 講義の余白から

 授業の準備と試験問題作成の際、ある知識をそのまま覚えさせるのではなく、理解し覚えたことをその後さまざまな仕方で使えるようになりたいという気持ちに学生たちをさせるにはどうすればよいのかと常々考えている。
 授業のレベル・目的・分野によって事情も異なるわけであるから、この問題についての自分の考えがどんな場合にも適用可能だとはもちろん考えてはいない。
 古典文学と文学史の授業を担当していて、こちらからの願いとして、学生たちには、古典作品の魅力をわかってもらい、自分で読んでみようという気になってほしいということがまずある。ところが、それに対して、答えが決まっているような、ただ知識の正確さを問うだけの試験形式は、かえって学生たちからその気を奪い、古典の世界から遠ざけてしまいがちだ。
 この問題は、歴史の授業でもほぼ同じような仕方で生じてしまう。ただ覚えることを強制するのではなく、歴史を学ぶことの大切さと魅力を感じてもらい、自ら進んで調べ理解し、必要とあれば覚えるという姿勢を身につけてもらうには、どうすればいいのだろうか、そういつも自問しながら授業の準備をしている。
 この問題への一つの私なりの答えとして、これまでの四年間にも、日本文学史と日本史の講義で、実際かなり型破りな試験問題を与えてきことは、拙ブログでも何度か話題にしてきた。
 今回の前期中間試験では、さらに積極的な学びの姿勢を学生たちに身につけてほしいとの願いから、私にとっても初めての形式を採用することにした。ただ、それはあまりにも破天荒だとの誹りを招きかねないので、課題を複数与え、その中から学生たち自身が自由に選んでよいことにした。と同時に、こうした自由な選択を苦手とする「お利口さん型」の学生たちのために、一問はオーソドックスな形式にするという配慮はした。
 今日の授業で、学生たちにすべての課題を公開し、こちらの出題意図をパワーポイントを使って詳しく説明した。問題はすべて『平家物語』を対象あるいは素材にしている。試験までまだ二週間あるが、学生たちには他の試験の準備もあるから、私が与えた課題は相当に重いはずである。
 今まで見たこともない課題を眼の前にして、学生たちは目を丸くし、顔を見合わせ、しばらく教室内はざわついた。これは当然の反応で、想定内である。ところが、彼らの表情に表れていたのは、どうすればいいのかという困惑というよりも、これはもしかしたらやってみると楽しいかも知れないという期待感のようなものだった。自分はどの課題を選ぼうかとさっそく考え始め、授業後、自分のアイデアは許容範囲か聞きに来た学生もいた。
 さあて、こちらの期待通りの結果が出るかどうか。それは二週間後のお楽しみである。ちなみに課題を説明したパワーポイントは、大学のイントラネットの当該授業の頁に公開してある。













「あの美しいシャボン玉をこわさぬように」― 小泉節子「思い出の記」より

2018-10-10 23:59:59 | 読游摘録

 ラフカディオ・ハーンの妻小泉節子が残した「思い出の記」は、ハーンの人となりと彼の創作現場を知る上でこの上なく貴重な証言であるばかりでなく、読んでいてはっとするような印象的な表現が所々に出てきて、それがこの聞き書きをとても魅力的な読み物にしている。ハーンのちょっと可笑しな日本語をおそらくそのまま再現しているであろうところも興味深くかつ読むのが楽しい。
 ハーンにとって想像の世界に遊んで書くことが何よりの楽しみであったことを示す例として、「私の好きの遊び、あなたよく知る。ただ思う、と書くとです。書く仕事あれば、私疲れない、と喜ぶです。書く時、皆心配忘れるですから、私に話し下され」と言っていたこと、節子が提供者であった話の種が尽きると、「ですから外に参り、よき物見る、と聞く、と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本読むばかり、いけません」と彼女に話の取材を頼んでいたことなども、こうしてハーン自身の言葉で示されていると、より印象深く読み手に伝わってくる。
 妻節子は、話の種の提供者としてかけがえのない創作協力者であったと同時に、ハーンが創作活動に集中できるように家庭内環境を細心の注意を払って整える優れた伴侶でもあった。
 物音にことのほか敏感なハーンのために、彼の創作中は、「いつでもコットリと音もしない静かな世界」にしておいたという。簞笥を開ける音に対してでさえ、「私の考えこわしました」などと言われてしまうので、引き出し一つ開けるにも、そうっと静かに音のしないようにしていた。この後に次のようなそれ自体とても美しい表現が出てくる。
 「こんな時には私はいつもあの美しいシャボン玉をこわさぬようにと思いました。そう思うから叱られても腹も立ちませんでした。」
 ここを読んだだけでも、節子がどれだけハーンの作家としての仕事を大切に思い、それを深い愛情をもって支え続けたかがよくわかる。












『居酒屋ばあば樹木希林』、『人生フルーツ』、そして『おくりびと』― 問題を「動詞で」考える

2018-10-09 23:59:59 | 講義の余白から

 先週金曜日の「日本文化・文明講座」では、今日の記事のタイトルに掲げた番組・映画のごく一部を、日本語での私の解説を交えながら、学生たちに観させました。〈生きる〉とは、〈住まう〉とは、〈暮らす〉とは、〈食べる〉とは、〈人と共に生きる〉とは、〈自然と共に生きる〉とは、〈死ぬ〉とは、〈死者を送る〉とは、などなど、誰にとっても避けがたく抜き差しならぬ大切な問題を考える一つのきっかけにしてほしいと願ってのことでした。
 列挙した問いの形からわかるように、問題を「動詞で」考えることの大切さを伝えたかったということもありました。生とは、住居とは、暮らしとは、食とは、共生とは、自然(との共生)とは、死とは、葬送とは、などなど、大きな問題になればなるほど、私たちは「名詞で考える」傾向があります。しかし、そのような態度は、そもそも問題の核心から私たちを遠ざけてしまいかねません。学生たちには、そのことに気づいてほしかったのです。
 とはいえ、わずか一時間の授業ですし、上掲の諸問題はそれぞれに大きな問題ですから、それをあからさまに掲げては、学生たちは引いてしまうだろうと、私の解説では、聞き取るのが難しいと思われる部分について易しく言い換えたり、細部について補足を加えるにとどめ、後は番組と作品の登場人物たちにそのまま「語ってもらう」ようにしました。
 昨年東海テレビで放映された『居酒屋ばあば』は、ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』でナレーターをつとめた樹木希林が映画の主役であった津端夫妻の英子夫人(夫の修一さんはドキュメンタリー映画作成中に亡くなり、その亡くなった姿が映画の中で大写しされる場面があります)を番組のゲストとして招き、名古屋市中区栄のある居酒屋でおばあさん二人の「女子会」をするという設定でした。番組で『人生フルーツ』の一部が紹介されているのですが、まず、その部分を見せ、次に、樹木希林が高蔵寺ニュータウンにある津端夫妻の家を訪ねる場面を少し見せ、最後に、番組の終わりの方で樹木希林が英子さんに向かって、自分は全身癌だが、一切の延命治療を拒否して、病院では定期的に検査と緩和治療のみを受け、「自然に死を迎えたい」と語っているところを見せました。ここまでで授業の前半30分を使いました。
 そして後半は、『おくりびと』から主人公の大吾(演ずる本木雅弘が樹木希林の娘婿だという、本筋とは関係ない情報も補足しました)が納棺師という仕事をいかに受け入れていくか、それに対して妻や友人たちの理解を得ることは容易ではなかったことがわかるように、いくつかの場面を選んで見せ、納棺師という、一見古くからの伝統に則っているかのように見える仕事が実は戦後にできた仕事であること、それはなぜだったかなどを補足情報として与えました。
 学生たちは概してよく集中して観てくれました。そして、授業後に学生たちが送ってくれた感想の中には、なかなか読みごたえがあるものがいくつかありました。中には、当該の番組や映画を授業後に全編観た上で、授業では触れもしなかった場面についての考察を書いてくれた学生もいましたし、授業で見た番組や映画をきっかにして自分が死について考えたことを詳しく書いてくれた学生もいました。番組と映画とから共通の問題を引き出したレポートもあれば、逆に両者の対照性を強調しているのもありました。
 「いつものように自由に感想を送ってください」と授業の終わりに一言言っただけだったのですが、学生たちの何人かは、授業後に番組や映画全編を見直して、いつにも倍して長いレポートを自発的に書てくれました。それは番組と作品そのものにそうさせる力があったということでしょう。
 日本において日本人が日本の現実に即して日本語で作った番組や作品を観たことが、上掲の諸問題のいずれかについて何かを大切なことを摑むきっかけになってくれたとすれば幸いなことです。












日本人教師による日本語のみの日本文化・文明講座

2018-10-08 19:26:20 | 講義の余白から

 九月から新しいカリキュラムになり、その中に日本語の語学授業以外で日本語だけで行われる講義が初めて導入されました。学部三年生(フランスの大学では学部最終学年)の一コマ一時間だけですが、弊日本学科創設三十二年を経て初めての試みであります。
 新カリキュラム案を昨年同僚たちと練っているときには、二時間という枠も検討されたのですが、多分学生たちの集中力がそんなに続かないだろうという理由で一時間にしました。そのときからこの講義は私が担当することが決まっていました(当時、専任の中で日本人は私だけでしたから、議論の余地もありませんでした)。
 この講義のタイトルは « Civilisation et culture japonaise » 、時代も分野もアプローチの制約もなにもなく、担当する教員が自由に方法と内容を考えることができるようになっています。初めての試みなので、最初は当然試行錯誤の連続であろうとの見込みからこのように決めました。というよりも、すべて日本語で行うという条件以外は何も予め決めなかった、と言ったほうがより適切ですね。
 講義は、毎週金曜日午前十一時から正午まで。先週までで四回終えました。
 初回は、学生たちの聴解能力がどの程度か予め測りかねたので、日本の大学生向けの、歴史と現在との関係に関する日本語のテキストを与え、そのテキストについて四十分間解説し、その直後に理解度を確かめるために、私が日本語で話した内容の要旨とそれについての意見をフランス語で書かせました。
 出席者は二十五名。大半の学生は、まあまあ、あるいはかなりよく、内容を理解していることが彼らの書いた文章を読んでわかりました。ただ、「先生の言っていることはほとんど聞き取れませんでした」と正直に書いてくる学生も一人二人いました。
 しかし、眼の前にテキストがあるとどうしてもそれに頼ってしまうのは否めません。そこで、第二回目からは、理解の手がかりになる言葉と映像をプロジェクターで映すか、一言二言キーワードを板書するだけにして、あとは口頭で説明するようにしました。選んだテーマはラフカディオ・ハーン。学生たちはこの作家について何も知らないだろうと想定していたのですが、中にはすでに仏訳で『怪談』を読んだことがある学生もいたりして、こちらの予想以上にハーンという作家の作品と生涯に関心をもってくれたようでした。この二回目からは、丸々一時間日本語で話し、要旨・感想・意見は、授業後にメールで送らせるようにしました。
 聴解力を高めるという目的ももちろんこの講義にはありますが、私としては、それ以上に、日本語で提示されたテーマとその展開そのものに関心を持ってほしいと思いながら、毎回準備しています。
 第三回目は、こちらの学生たちの関心も高いであろう、日本の学生たちの就活について話しました。予想通り、フランスとの違いに驚く学生が少なくありませんでした。真面目な話ばかりでは息が詰まるだろうからと、少し楽しい要素も盛り込もうと、採用試験最終面接の場面をコミカルに描いたテレビドラマを見せて、面接に望む学生たちの服装の細部に注意を促したりもしました。授業後に送られてきた感想では、日本の就活システムを絶賛する学生もいれば、そのシステムから自由になれない日本の学生たちの大変さを思いやる学生もいました。将来日本で働きたいと思っている学生たちの中には、自分たちのような外国人学生はどのように就活すればいいのかと困惑していました。
 先週金曜日の講義内容については明日の記事で話題にいたします。














クロノスにおいてカイロスを捉える操作時間の実践形式の一つとしての和歌

2018-10-07 23:59:59 | 哲学

 万葉の歌人たちも平安朝の歌人たちも、自分たちの詠んだ歌が千年先もなお読まれ続けるだろうとは想像だにしなかっただろう。いずれもそれぞれにその時に応じて詠まれた歌だったのだから。あるいは自分の死後も自分の歌が永く読み継がれることを願った歌人たちもいたかも知れないが、そのことを主たる目的として詠まれた歌はないだろう。歌合の席で詠まれた歌など、そのときの相手方に勝たんがために工夫を凝らし斬新な表現を狙っただけのものも少なからずあっただろう。もちろん、そのような歌のほとんどは凡作・駄作として忘却の淵に沈んでいくほかはなかった。しかし、それら無数に詠まれた歌の中から、今もなお人々に読まれ、愛されて続けている歌が何百何千と残っているということに、今あらためて深い感動を覚える。
 昨日までの連載記事の中で見てきたカイロスとクロノスとの区別と関係を、その文脈を無視して強引に転用するという暴挙に出るならば、千年の時を超えて読まれ続ける名歌・秀歌はいずれも、流れる時間であるクロノスの中のごく限られた時間を生きた歌人たちによってその人生のある時点で詠まれ、そのクロノスの中の時においてカイロスを捉えることにそれぞれに成功しているからこそ、時間を超えた価値を有つに至ったのだ、と言えるだろう。
 アガンベンによって援用されたギュスターヴ・ギヨームの「操作時間」という概念を、これもまた無茶を承知で濫用するならば、和歌とは、クロノスにおいてカイロスを捉える操作時間の実践形式の一つだと言えるだろう。













カイロスとクロノス(20)― 終末の前にまだ何かを為し得る僅かな残り時間の共有がメシア的共同体の可能性の条件である

2018-10-06 23:59:59 | 哲学

 新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」第七章二十九節にある「定められた時は迫っています」(新共同訳)のギリシア語原文 « ὁ καιρὸς συνεσταλμένος ἐστίν » で使われている « συνεσταλμένος » には、海事・航法用語として「帆を絞り綱で絞る、縮帆する」という意味があることが聖書の注釈書からわかる。アガンベンは、しかし、この語には「動物が飛ぶ前に身を縮める」という意味もあることを指摘する。そして、この文の直後に来る « τὸ λοιπὸν » は、単に「その上さらに」という意味ばかりでなく、「残っている時間」という意味もあるのだと言う。
 この「残っている時間」がメシア的時間にほかならないとアガンベンは言いたいのだろう。この時間は、単に私たちに残された時間というだけではなく、私たちの持ち時間、つまりその間に私たちがまだ何かを為し得る時間である。
 したがって、この時間、つまり終末の前にまだ何かを為し得る僅かな残り時間の共有がメシア的共同体の可能性の条件ということになる。














カイロスとクロノス(19)― メシア的時間、それは私たちが私たち自身である時間である

2018-10-05 23:59:59 | 哲学

 以下、アガンベンの著書の仏訳 Le temps qui reste の119頁から120頁にかけての一頁弱をほぼそのまま訳しただけである。
 メシア的時間は、それゆえ、時系列的な時間の線ではない。この線は表象可能だが、思考不可能だ。他方、その時間の終わりでもない。これもまた思考不可能だ。しかしまた、時系列的時間から控除されたその一部でもない。それは表象から時間の終わりへと行くだけだ。
 メシア的時間とは、むしろ操作時間である。この操作時間が時系列的時間の内部に発生し、時系列的時間に作用し、それを内部から変容させる。それは、私たちが時間を終わらせるために必要とする時間なのだ。この意味で、それは「私たちに残された時間」である。
 私たちがもっている時系列的時間の表象は、その時間が私たちにとってその中で生きている時間であるかぎりにおいて、私たちを私たちから引き離し、私たちを自分たちに対して無力な観衆にしてしまう。逃げ去る時間を時間なしに眺め、自らがそこにはどこまでいっても不在であることをただ眺めているばかりだ。
 それに対して、メシア的時間は、まったく反対に、時間の私たち自身に固有な表象を捉え、それを仕上げる操作時間として、私たちが私たち自身である時間である。それゆえ、これこそが唯一現実的で私たちが所有している的時間である。













カイロスとクロノス(18)― メシア的時間、それは時間の表象を終わらせるための時間である

2018-10-04 17:15:42 | 哲学

 昨日の記事まで四日間にわたって、ギュスターヴ・ギヨームにおける操作時間についてのアガンベンの説明を、講義の準備や雑務の合間を縫って、少しずつ読んできた。正直なところ、いまだによく理解できているとは言えない。しかし、今はこれ以上理解を深める、あるいは大いに可能性がある誤解を訂正する手立てがない。
 それはそれとして、今日の記事からは、この操作時間という概念をアガンベンがどのようにメシア的時間の理解に適用するのかを見ていこう。
 私たちが時間について形成する諸表象のいずれの中にも、私たちがその中で時間を定義し表象するその都度の言語行為の中にも、その後にやってくる時間が含まれており、この時間は表象の中でも言語行為の中でも汲み尽くされることがない。それはあたかも人間が、考えるもの・話すものとして、時系列的時間に対してそれよりも遅れてやってくる時間を作り出しているかのようだ。この時間が、時系列的時間が己にそのイメージや表象を与えることができる時間と完全に一致することを妨げているかのようだ。
 この後からやってくる時間は、しかし、別の時間ではない。時系列時間にその外からつけ加えられるような追加の時間ではない。この時間は、いわば時間内時間である。だから、より正確には、後からやってくる時間ではなく、内的時間と言ったほうがよい。この内的時間が私と時系列的時間(言い換えれば外的時間)との〈ずれ〉、私自身に固有な時間表象と私との乖離あるいは両者の不一致を計測させずにおかない。
 しかし、まさにそれゆにこそ、この乖離あるいは不一致は、己に固有な時間表象を完成させ把握することができる私の能力の指標でもあるのだ。
 以上の論拠を基に、メシア的時間について最初の定義をアガンベンは提示する。メシア的時間とは、終わりにするために時間が要する時間である。より正確には、私たちの時間表象を終わらせるため、それを完成させるために私たちが用いる時間である。












カイロスとクロノス(17)― 思考においては完全な自己同一はけっして成立しない

2018-10-03 23:59:59 | 哲学

 バンヴェニストが言うように、もし発話行為が主観性と意識の基礎なのならば、発話行為に必然的に伴う思考と発語形成との間の〈ずれ〉或いは後者の前者に対する〈遅れ〉は、主観の構造の構成要素を成している。思考はつねに言語行為として成り立つのであれば、まさにそれが理由で思考はそれ自身のうちに必然的に操作時間を内含している。言い換えれば、思考においては、それがたとえどんなに高速度で実行され、その鳥瞰能力がいかに大きくても、けっして完全な自己同一は成り立たないということである。意識が己自身に現前するということはつねにすでに時間形式においてである。このことは思考の時間と表象の時間とはけっして完全には一致しないということも説明してくれる。思考がそれらを通じて自己表現する語群 ― そして、あるイメージ時間がそれらにおいて実現される語群 ― を形成するために、思考はいくらかの操作時間を必要とする。この操作時間は、ある仕方でそれを内含している表象の中に表象され得ない。












カイロスとクロノス(16)― 失われた時間性を取り戻すために

2018-10-02 15:05:46 | 哲学

 ギヨームの操作時間という概念は、時間性を失った空間的表象に再び時間を取り戻させる。それだけではなく、言語は己自身の生成の操作時間に自らを関係づけることができるという発想は、バンヴェニストの言語理論に基礎づけを与えるものでもある。
 言語は、発話行為において用いられる指標記号によって、己自身の実行過程に自らを関係づける。まさに言語行為が実行されている瞬間へと自らを関係づける。発話行為の純粋な現前へと自らを関係づけるこの能力は、バンヴェニストにとって、chronothèse と一致している。
 この chronothèse とは、ギヨームによれば、« opération de pensée consistant à fixer des images planes du temps identifiées par l'unité de mode des formes composantes » (Temps et verbe, p. 23) である。つまり、一定の様態において用いられる構成要素群の統一性によって同定された時間の平面的イメージを固定化する思考の操作のことである。この操作と言語行為が自己現前へと己を関係づける能力とが一致しているというのである。
 この一致は、発話行為の純粋な現前へと自らを関係づける能力と、私たちがもつ時間の表象の起源との一致でもある。この表象が時間との関係の軸をなす。
 ところが、あらゆる心的操作、したがって言語活動中のあらゆる思考が操作時間を内含しているとすれば、現に実行中の言語行為の瞬間への関係づけにも、ある一定の時間が内含されていることになる。そして、chronothèse は、それ自身のうちに或る事後的時間、思考そのものにごく僅かであれ遅れた時間をも含んでいることになる。この事後的時間が、発話行為の「純粋な現前」の中に〈ずれ〉あるいは〈遅れ〉を導入する。
 以上、アガンベンの説明に補足を加えながら、ギヨームの操作時間という概念の理解に努めたが、まだよくわかったとは言えない。明日の記事では、小活字で組まれた説明部分の残りを最後まで読み、理解の努力を継続しよう。